法華経-方便品第二には、方便の説、すなわちこの上も無く正しい教えを受け入れることができずに敢えて離れて行く者が五千人いたと記されています。

 

彼らは、正法から離れて行った人々であると言うことになり、このため彼らが作仏することはついにないと説かれるのです。

 

なぜこのような修行者が出てしまうのでしょうか?

 

それは、仏道修行を進めることとは功徳を積むことに他ならないという真理が理解できないゆえのことであるということになるでしょう。

 

何となれば、法華経では、方便の説を衆生に聞かせて彼らを覚り(=解脱)に近づけることが量り知れないほど大きな功徳を積むことになると説くからです。

 

なお、法華経以外の大乗仏典においても種々様々な方便の説を衆生に聞かせることの利益(りやく)を説いており、功徳を積むことの本質についての基本理念は軌を一にしています。

 

ただ、方便の説を伝えることが功徳になるということが衆生には分かり難いということはあるでしょう。

 
とくに法華経の場合、子供じみたおとぎ話にも似た譬え話を聞かせることが方便の説を伝えることになると主張しており、それが仏道修行そのものになるとは信じ難いのは確かであろうからです。
 

しかしながら、実際には、これらの譬え話は仏の智慧そのもの(ほとんど同じもの)であると言ってもよいものなのです。

 

ところが、衆生にはその素晴らしさが分からない。

 

そのすれ違いのような事実こそが、功徳を積むことの難しさを象徴しているのです。

 

それでも、いとも聡明な人は、半信半疑ながらも方便の説を他の人々に向けて伝えるでしょう。

 

そうして、実際に大きな功徳が積まれ、作仏することになるのです。

 

なお、この機微を説明するために、同経典では常不軽菩薩縁起として一つの譬え話を立て、記しているのでずが、それでも仏の真意を理解することは難しいようです。

 

予め功徳を積んだ人だけが、その真意を理解することを得る。

 

功徳が功徳を生じる所以でもあります。

 

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