仏道修行者は、仏道修行に勤しみ、以て自らの道の歩みを堅固ならしめ、ときに遍歴修行を為し、奮励して、次第次第に功徳が積まれ、因縁を生じてついに覚る(=解脱する)ことになります。

 

このとき、奮励する言葉が仏道修行を大きく前進させる起爆剤となることがあります。

 

ちなみに、この奮励の言葉は外的に得たものではなく、基本的に自分で想起した言葉であり、それゆえに自分自身を根底から奮励せしめる働きを為すのです。

 

その言葉は、因縁を得てふと想起されるものであり、無心で読んだ仏典の一節がその契機となったり、聞き知った如来の言葉を咀嚼しようと努力する過程で生じたある種の要約がその言葉として機能したりします。

 

そうして、仏道修行者は、この奮励の言葉によって仏道の本流を見出し、それまで飲み込めなかった仏教の根本の教えを覚知するのです。

 

ある修行者は、それによって発心することさえあります。

 

これについて、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。

 

23 (道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。(真理のことば・ダンマパダ 第二章 はげみ 中村元訳 岩波文庫)
 

***