立派な仏道修行者といえども、自分自身修行が進んでいないような気がすると、悲観して自分を卑下してしまうことがあるかも知れません。

 

しかしながら、それが覚り(=解脱)の道に役立つことはあり得ないのです。

 

何となれば、仏道修行は修行者が少しずつ優しい人になって行く過程ではなく、最後の最後に仏道修行者が真実のやさしさを覚知し、それによって智慧を生じ、ついに解脱が起こるというものだからです。

 

したがって、修行途中の修行者の精神状態は仏道修行そのものには関係せず、いわば修行の最後の最後に智慧を生じるかどうかだけが問われることになります。

 

これに関連する理法を、釈尊の原始仏典にも見ることができます。

 

1105 ウダヤさんがたずねた、「瞑想に入って坐し、塵垢を離れ、為すべきことを為しおえ、煩悩の汚れなく、一切の事物の彼岸に達せられた(師)におたずねするために、ここに来ました。無明を破ること、正しい理解による解脱、を説いてください。」

1106 師(ブッダ)は答えた、「ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、

1107 平静な心がまえと念いの清らかさ、──それらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、──これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 14、学生ウダヤの質問 中村元訳 岩波文庫)

 

このようなことから、仏道修行者は、日々の行為の顛末や帰趨に一喜一憂することなく、つねに凜として修行に勤しむべきであると言え、真実を知ろうとする熱望する気持ちを保つことが大事なのです。

 

そのようであってこそ、仏道修行者は気をつけることができ、世に希有なる法の句を聞き及ぶことを得て、ついに覚る(=解脱する)と期待され得るのです。

 

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