人々(衆生)は、世俗の楽しみを極め、それによって最高の楽しみを得ようとするものです。

 

なぜならば、現実問題として、衆生にとって最高の楽しみに到達する方法があるとしたらそれしか思いつかないからです。

 

しかしながら、人が仏道修行に勤しみ、覚って、不滅のニルヴァーナに到達したとき、それが世俗の楽しみを超えた、人としての最高の楽しみであることを知るのです。

 

同時に、世俗の楽しみを追求し、その究極に到達することができたとしても、それは決して最高の楽しみとはならず、それどころか皮肉にも大きな苦悩をもたらすものに過ぎないことを知るのです。

 

このため、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。

 

290 つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、こころある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。(真理のことば・ダンマパダ 第二一章 さまざまなこと 中村元訳 岩波文庫)

 

ただ、そうは言っても、人々(衆生)がニルヴァーナの楽しみを理解することは不可能であり、想像することさえも容易なことではありません。

 

例えば、まだ一度も口にしたことのない果物の味に思いを馳せ、それが果物の味の中で最高のものであることを知れよというようなものだからです。

 
実際、人々(衆生)がニルヴァーナの楽しみを微かでさえ覚知することは難しく、実際に仏道修行に勤しむ決意を為す人はさらに稀であると説かれます。
 
「〜諸仏が世に出られる事は、遥かに遠くして遇う事は難しい。たとい世に出られたとしても、この教えを説かれるという事がまた難しい。無量無数劫を経ても、この教えを聞く事は難しい。よくこの教えを聴く者達もまた得がたい。例えばすべての人々が愛し楽しみ、天人や人間の珍重する優曇華(ウドゥン.バラ)の花が、長い間にたった一度だけ咲き出る様なものである。教えを聞いて歓喜し、一言でもそれを語るなら、それだけで既に一切の三世の仏を供養した事になる。この様な人が甚だまれであること、優曇華の花以上である。〜」(法華経-方便品第二)
 
そこで、聖求ということが説かれることになるのですが、聖求の核心はこの極めて難しい仏道修行の実践を自分自身偽りなく、心の底から決心し得たという処にあるのです。
 
要するに、他ならぬ自分自身が覚ることができるのだという確信こそが聖求の本質であるということです。
 
同時に、世俗の楽しみが実は儚い楽しみに過ぎず、それどころか人を損なうものであることを見抜いた証左でもあります。
 
人は、このようにして真のしあわせの境地たるニルヴァーナに至る道を見出し、最高の楽しみを得ようと欲してその歩みを始めるのです。
 
この意味において、仏道修行者は単なる厭世的な人ではなく、禁欲主義者でもなく、むしろ広大な楽しみを求めて人生を生きる志のある人なのです。
 

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