仏道修行者が、静けさをめざして功徳を積むとき、世に希有なる「法の句」を耳にしてそれが覚りの機縁となり、因縁があるならば覚り(=解脱)を生じる。

 

これが仏道を歩むことの全貌です。

 

ところで、仏道修行者が法の句を耳にする機会が極めて少ないことには理由があるのでしょうか?

 

微妙な問いですが、次のようなことがその理由であると考えられます。

 

まず、最も大きな理由は、仏道修行者はそもそも法の句が発せられるような場に基本的に近づかない性質があるということが挙げられるでしょう。

 

これはどういうことかと言えば、仏道修行者は静けさをめざして修行に邁進しており、心の奥底で世の喧騒に近づくことを敢えて回避しているとみられます。

 

つまり、かれが世の喧騒を無意識下で察知した場合、その場所に近づこうとはしないため、法の句が出現する可能性がある大事の局面に遭遇しないということです。

 

これは、現実問題として法の句が世の喧騒の中においてしばしば出現するという事実に基づく推定です。

 

また、法の句はしばしば女性の口から発せられることがあるのですが、男性の修行者の場合、女性に近づくことがそれだけで戒律に触れると誤解している人があるとみられることです。

 

要するに、人を覚りに導く機縁となる法の句は、女性の口から発せられることはないという思い込みが法の句を耳にする機会そのものを奪っていると考えられるということです。

 

そして、法の句を耳にする機会が極めて少ない別の理由としては、一般的に法の句はごく平易な言葉で発せられるということを指摘することができるでしょう。

 

なお、この思い込みは、仏教を学問的に理解しようとする人にみられがちです。

 

では、どうすれば法の句を耳にする機会を損なわないようにできるのでしょうか?

 

それは、よく気をつけて世を遍歴することです。

 

また、聞く耳を持ち、自分が言葉を発するよりもむしろ相手に多くを語ってもらうように留意すべきことです。

 

それが静けさを保つことにも役立ち、法の句を耳にしたときにそれを認知できる可能性を高めると期待されるのです。

 

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