仏教でいう旦那(ダーナ)とは、基本的には自分自身が修行して覚りを目指すのではなく他の仏道修行者が覚りを目指しているのを支援したり、あるいはすでに覚った人を供養することに人生の意義を認め、それを実行している人を指しています。

 

ただし、現代の在家の仏道修行者の中には、自分の本分としては仏道修行者でありながら、同時に旦那(ダーナ)として振る舞う人もあります。

 

さて、このような在り方は、仏道修行者として適切なものなのでしょうか?

 

つまり、それぞれの立場を一人が同時に行うことは互いに相反した行為にならないかということです。

 

結論を言えば、そのような懸念はないということになるでしょう。

 

それどころか、少なくとも日本および一般的な先進国においては、このような人は仏道修行に専念しているだけの人よりもむしろしっかりと功徳を積んでいるものと考えられ、覚りの機縁を生じ易く、またことに臨んで速やかに覚る(=解脱する)ことが期待されると言えるのです。

 

ただしこれは、在家の活動が仏道修行の本質を妨げないという場合であることはもちろんです。

 

ところで、とくに釈尊存命の時代においては、在家よりも出家して仏道修行に専念することの方が利益(りやく)が大きいとされており、先の言明はこれとは逆になっています。

 

その理由は、少なくとも現代日本および先進国においては在家であることが功徳を積むことを妨げず、むしろより多くの功徳を積む縁となっていることが挙げられます。

 

具体的には、在家であればこそ仏典で学んだ方便の説を他の人々(衆生)に説き聞かせる機会が多く、出家してしまうと却ってそれが少なくなってしまうということなのです。

 

すなわち、釈尊存命の時代には無かった「方便の説を人々(衆生)に語るという功徳の積み方」が後代において発見され、同時にそれを実践するに相応しい社会活動の場が存在しており、それを用いた仏道修行を前提にした場合、在家の方がより多くの功徳が積めるという往時とは逆転の構図があるということです。

 

そして、それは旦那(ダーナ)としても活動している人であればより多くの功徳を積むことができるでしょう。

 

このようなことを背景として、現代においては旦那(ダーナ)としての一面を持った仏道修行者こそ立派な修行者であると言えるのです。

 

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