人が、真の意味でしあわせになるためには仏教を信仰し、功徳を積んで、覚らなければなりません。

 

何となれば、仏道を歩む以外に人の究極のしあわせの境地たるニルヴァーナに到達する道は存在しないからです。

 

しかしながら、世界中の人々が仏教を信仰しているわけではありません。

 

では、どういう人が仏教を信仰することができているのでしょうか?

 

要するに、「仏教信仰の前提となるものは何か?」という問いです。

 

これについて答えるならば、次のようになるでしょう。

 

・ しあわせを心から求め、どうすればこれを得ることができるのかについて知ろうとする人。
・ 仏教的世界観に触れ、一定の理解を生じ、この世界観の究極に自分が求めるしあわせの境地があると確信した人。
・ 仏教的世界観に触れたことはないが、自分が生まれ育った環境で知り得たいろいろな世界観に随っているだけでは自分が求めるしあわせには至ることはできないであろうと思っている人。
・ 宗教によって真のしあわせを得ることは難しいに違いないと少なからず認識している人。
 
さて、このような人が仏教に触れたとき、仏道修行に勤しむ気持ちを起こすのです。
 
もちろん、最初のうちは仏道修行とは言えない的外れの修行に勤しむこともあるでしょう。
 
それでも、心構え正しき人は次第次第に理法に適った修行法を見出し、実践し、さらに功徳が積まれて、仏道修行の本流に合流することを得るのです。
 
そうして、ついに覚り(=解脱し)、当初の目的を果たすに至ります。
 
ここで大事なことは、「さあこの仏教を信仰しなさい」などと言われて、それにしたがうことで仏教を信仰するようになるわけではないということです。
 
仏教を信仰することは、すべて本人の自由意志に基づいて起こり、確立されることだからです。
 
このため、法華経-方便品第二では次のように説かれるのです。
 
「〜諸仏が世に出られる事は、遥かに遠くして遇う事は難しい。たとい世に出られたとしても、この教えを説かれるという事がまた難しい。無量無数劫を経ても、この教えを聞く事は難しい。よくこの教えを聴く者達もまた得がたい。例えばすべての人々が愛し楽しみ、天人や人間の珍重する優曇華(ウドゥン.バラ)の花が、長い間にたった一度だけ咲き出る様なものである。教えを聞いて歓喜し、一言でもそれを語るなら、それだけで既に一切の三世の仏を供養した事になる。この様な人が甚だまれであること、優曇華の花以上である。〜」

 

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