覚り(=解脱)の道の歩みには、途中の実りなど何一つなく、しっかりと功徳を積んだ人が因縁によってまるで不意に解脱することを得る。

 

これが覚りの道の全貌です。

 

このため、立派な修行者といえども、修行途中においては自分の修行が進んでいるかどうかを実感することはないでしょう。

 

それでも、仏道修行を進めるための突破口のようなものがあればいいなと修行者が思うのは自然なことでしょう。

 

しかしながら、明確に修行者の意識に上るような突破口は存在していません。
 
そうは言っても、修行遍歴が突破口のような役割を果たす場合はあるようです。
 
ただし、このような場合であっても、遍歴そのものが突破口になるわけではないことには注意しなければなりません。
 
と言うのは、仏道修行が大きく進むタイミングは遍歴修行のそれとは無関係となるからです。
 
この機微は、ど忘れした言葉を思い出す過程に似ています。
 
このとき、思い出すための現実的な方法として、いろいろな言葉を思いつくままに心に浮かべてその中に忘れた言葉がないかチェックするという方法があるでしょう。
 

ところがこのとき、往々にして、ど忘れしていた言葉はそのいろいろと想起した言葉とはまったく関係のない言葉(音節)であったりします。

 

もちろん、ど忘れしていた言葉を思い出すことができたという結果は残ります。

 

仏道修行の突破口も、これと同様です。

 

それぞれの遍歴修行そのものが覚りの直接の機縁に結びつくことはないと見るべきですが、そうこうしているうちに不意に覚りの機縁を生じることがしばしば見られます。

 

そこで、もろもろの如来は、方法論というわけではなく、一つの修行の在り方として覚りを目指す修行者は遍歴修行を為せと説くのです。

 

そして、大事なことは修行者は「真実を知ろうとする熱望すべき」ことです。

 

何となれば、覚り(=解脱)は結局この熱望のあり得べき結果に他ならないと言えるからです。

 

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