「聖求ある修行者が、次第次第に功徳を積んで行くとき、覚りの機縁たる法の句を聞く機会を得る。このとき、因縁があれば解脱が起こる。これが覚りの道の全貌です。」

 

ここで、愚者は聖求を抱くことがなく、功徳も積まず、世に希有なる法の句を耳にしてもその真相を理解せず、ついに覚る(=解脱する)ことがありません。
 

このため、賢者だけが仏道を歩むことができると説かれることになります。

 

もちろん、人であれば誰もが幸せになりたいと思い、その実現に向かって努力していることでしょう。

 

ただ、その思いや努力だけでしあわせの境地たるニルヴァーナに到達することはできないのです。

 

そこで、志ある人は、その方法を探すところから始めることになるでしょう。

 

そして、ある人はその目的を果たすことができる道を説く教え、すなわち仏教に触れ、信じるこころを起こして仏道修行に勤しむようになります。

 

その一方で、ある者は仏教に触れてもこれを信じることができず、あるいは仏教ならざるものに惹かれて、ついにニルヴァーナに到達することなく人生を終えることになるのです。

 

この意味において、前者を賢者、後者を愚者と大きく区別することもできるでしょう。

 

ところで、誰だって自分は愚者ではなく賢者の部類に入ると思いたいでしょう。

 

しかしながら、それだけで賢者であることはできないのです。

 

すべては、仏教を信じることができるかどうかにかかっています。

 

そして、現実論として、もし賢者であるならばすでにしあわせの境地たるニルヴァーナに至る一なる道、すなわち仏道を歩んでいるに違いないのです。

 

では、誰が仏道を歩んでいるのでしょうか?

 

もろもろの如来は、人々(衆生)の言動を見聞きしてその基本的な是非可否を察知することができますが、本人は自分の賢愚を知ることは難しいでしょう。

 
そして、正しく賢者であった人だけがついにニルヴァーナへと到達し、自分が賢者の部類に入っていたことを理解することになるのです。
 
このため、一般的に言えば賢愚の真相は結果論と言うことになってしまうでしょうが、それでも修行者本人が自分の賢愚を判断する材料は存在しています。
 
それは、「道中の不安を感じているかどうか?」というものであり、感じているならば愚者、感じていないならば賢者の部類に入っていると考えて大過ないでしょう。
 
なお、実際の仏道修行は遍歴修行のかたちで為されるものであり、それぞれの遍歴の局面においてさえ道中の不安を感じることがない人こそ、賢者であると見て間違いないのです。
 
その結果、彼はニルヴァーナへと近づき至る道を楽しみと栄えとともに歩むことになり、次第次第に功徳は積まれて、ついに目的地に到達することになるのです。
 
ちなみに、釈尊時代にも自分の賢愚をハッキリさせたかった修行者がいたのでしょう。釈尊の原始仏典に、次の理法を見ることができます。

1147 (ピンギヤはいった)、「わたくしは聖者のことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようになりました。 さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明察のあられる方です。

1148 神々に関してもよく熟知して、あれこれ一切のことがらを知っておられます。師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。

1149 どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地に、わたくしは確かにおもむくことでしょう。このことについて、わたくしには疑惑がありません。わたくしの心がこのように確信して了解していることを、お認めください。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 18、一六学生の質問の結語 中村元訳 岩波文庫)
 
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