世人には、世をはかなむことに一種風情を感じる人もあるでしょう。

 

そして、その先に覚り(=解脱)があると期待する人もあるかも知れません。

 

しかしながら、仏道修行の本質はそのようなセンチメンタルなこととは無縁なのです。

 

と言うのは、世をはかなむことの根底にあるのは人智に他ならず、仏智とは違うものだからです。

 

ところで、世を厭う気持ちが定まったとき、因縁ある人は身解脱(形態(rupa)の解脱)を生じます。

 

これは、識別作用の滅を伴うものであり、仏教の一つの解脱であると認められる境地です。

 

ただ、この世を厭う気持ちが定まるということが世をはかなむということによって喚起されることはなく、それどころかむしろ正反対の心情をもたらすものとなるのです。

 

けだし、世を厭う気持ちが定まるというのは、世俗の楽しみを充分に認めた上で、しかしそれは自分がこころから求める安らぎの境地とは正反対のものであることを了知した結果として発現し、固定化される心情に他なりません。

 

そして、これが定まるのは、世俗の楽しみの明示的な誘いを見て、一瞬魅惑され、しかし自らの聖求に照らしてその誘いの過患を明らかに知ったときというのが基本です。

 

つまり、世俗の楽しみを深く理解してこそ世を厭う気持ちが定まり得るのであり、これは世をはかなむということとは正反対のことがらであるということになります。

 

このため、修行者が感傷に耽っている間は覚ることは難しいと言え、正しく仏道修行に勤しむためにはその感傷を超えたところにある人と世の真実を見極めなければならないのです。

 

よって、修行者が心を木石のように頑なにすることは仏道修行とはならず、むしろ心を自由に働かせてこそ仏道修行の意義が整うことになるのです。

 

ただしもちろん、すでに覚った人は心を働かせることがなく、〈諸仏の誓願〉によって生きる存在となります。

 

そしてこれは、仏道修行が微妙である所以でもあります。

 

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