熱心な仏道修行者と言えども、仏教の真偽について疑惑を生じることがあるでしょう。

 

なお、これについては2024年1月4日の記事に書きました。

 

 

 

ところで、仏典から釈尊自身も修行中にはその疑惑があったことが分かります。

 

仏典の記述は修行中の疑惑そのものについて語ってはいませんが、覚った(=解脱した)ときにすべての疑惑が消え失せるという表現を以てそのことを匂わせているからです。

 

1088 トーデイヤさんがたずねた、「諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、──かれはどのような解脱をもとめたらよいのですか?」

1089 師(ブッダ)は答えた、「トーデイヤよ。 諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、──かれには別に解脱は存在しない。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 10、学生トーデイヤの質問 中村元訳 岩波文庫)

 

76 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、苦しみが因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

77 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、事物が因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

78 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、諸の因縁の消滅に近づくとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

79 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、諸の感受作用の消滅に近づくとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

80 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、諸の煩悩の消滅に近づくとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。(感興のことば・ウダーナヴァルガ 三十三章 バラモン 中村元訳 岩波文庫)

 

また、別の仏典には次の理法が見られます。

 

「まこと熱意をこめて思惟する聖者にかの万法のあきらかとなれるとき彼の疑惑はことごとく消え去った。縁起の法を知れるがゆえである。」(この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯 益谷文雄 講談社文庫 p49-50)

 

さて、このように修行者が修行途中において仏教の真偽について疑惑を生じることはよくあることであり、そのことが修行の成否に影を落とすことはありません。

 

それどころか、生じた疑惑を解決せんとして仏典により親しむならば、功徳が積まれることでしょう。

 

そして、実際に覚ったとき、本当にすべての疑惑が消え失せた自分を発見することになるのです。

 

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