ある修行者は、自分の努力を師や如来に承認してもらいたいようです。

 

しかしながら、そのようなことをしても意味がありません。

 

なぜならば、努力の誇示や確認は修行の糧や功徳を積むことには結びつかないからです。

 

その一方で、実際に覚り(=解脱)に至った修行者には、修行努力の存在が認められます。

 

よって、この意味において仏道修行には努力が必要であると言えるのです。

 

このため、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。

 

1025 (アジタがいった)、「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! それを説明してください。仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」

1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 1、序 中村元訳 岩波文庫)

ところで、修行者が師や如来に自分の修行態度について承認してもらいたいとしても、それは仏教に対する信の表明に止まるでしょう。

 

釈尊の原始仏典には、次の理法を見ることができます。

 

1147 (ピンギヤはいった)、「わたくしは聖者のことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようになりました。 さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明察のあられる方です。

1148 神々に関してもよく熟知して、あれこれ一切のことがらを知っておられます。師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。

1149 どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地に、わたくしは確かにおもむくことでしょう。このことについて、わたくしには疑惑がありません。わたくしの心がこのように確信して了解していることを、お認めください。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 18、一六学生の質問の結語 中村元訳 岩波文庫)

 

すなわち、「聖求」が仏道修行の根本であると言うことなのです。

 

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