経典の記述の中には、修行者にとってはまるでクイズのように感じるものがあるかも知れません。

 

そして、その答えをクイズを解くようにして求める人もあるでしょうが、それを実現することはできないでしょう。

 

なぜならば、経典の記述にクイズめいた部分があるのは、それを説明するためにはそのようにするしか方法がないからに過ぎず、クイズではないからです。

 

例えば、私(=SRKWブッダ)がホームページ『覚りの境地』において「無分別智」を説明する場合、次のように項目分けをして個別に説明を加えています。http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm

 

[実は二つあります]
[分別から出てくることはない]
[ひらめきではない]
[気づきではない]
[何も考えないことではない]
[自由奔放ではない]
[これ見よがしな行為を生じない]
[自然体ではない]
[そのままでよかったのではない]
[木石ではない]
[外的要因では無く、内的要因でも無い]
[意識に拠らず、無意識にも拠らない]
[必然でなく、偶然でもない]
[非合理・合理を超越している]
[善・悪を超越している]
[超越者の啓示ではない]
[信仰ある人からも現出する]
[師は無用]
[努力の結果ではない]
[こだわってはならない]
[醸成された結果ではない]
[悩み苦しんだ末ではない]
[思いやりの気持ちからではない]
[楽天的(悲観的)であるがゆえではない]
[精神集中の結果ではない]
[瞑想の結果ではない]
[自力でも他力でもない]
[知能に依らない]
[経験に依らない]
[男女の区別は無い]
[誓戒]
[命]
[唯一のもの]
[使い回しできない]
[訂正・変更されない]
[歯切れのよさとは無関係]
[清浄ならしめる]
[最悪を最高に]
[二つの壁を破る]
[二つの孤独を破る]
[卑下を生じない]
[慢心を生じない]
[光や音、声などない]
[感謝しない]
[喜ばない]
[軽蔑しない]
[親しくならず、疎遠にもならず]
[主客未分の状況から現れる]
[決心が必要]
[どうしてもいけなければのところから]
[熱望すべきもの]

 

さて、これを読んだ修行者は無分別智の何たるかを理解することができるでしょうか?

 

それは、無理でしょう。

 

何となれば、無分別智の本当のところは衆生が抱く概念を超えており、解脱してその真実を知った人にしか分かりようがないものだからです。

 

そしてもちろん、これらの項目はクイズとして出しているわけではありません。

 

これがもしクイズであれば、明確な答えがありそれは衆生の何かの概念に対応していることでしょう。

 

しかしながら、無分別智はそのような対応が取れないものであり、それゆえに無分別智という言葉を当てているのです。

 
そもそも、私(=SRKWブッダ)が無分別智について書いたのは、修行者にこれを理解してもらいたいと思ったからではなく、無分別智が人々(衆生)の概念を超えたものであることを説明したかったのです。
 
よって、無分別智の真実は、修行者が実際に覚った(=解脱した)ときに自分自身で知るところとなり、この理法と照らし合わせることでいわばその答え合わせができるであろうと考えてのことです。
 
他の仏たちが書いた仏典の一部についても、そのような意図で書かれたと認められるものがあります。
 
大事なことは、修行者は仏典を転じるべきであって、仏典に転じられてはならないということなのです。
 
これが正しく行われたとき、仏典は修行者にとっての宝となるのです。
 
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