例えば、珈琲を淹れたとき、いつになくとても美味しく出来上がることがあります。

 

これは、豆のひき具合や寝かしの時間、お湯の温度や注ぎ方、注ぐ量、気温や湿度、その他いろいろな要素がすべて丁度よい具合になり、結果的に美味しい珈琲に仕上がったということなのでしょう。

 

ただし、それをつねに再現することは容易ではありません。

 

なぜならば、関連する幾つかの要素のすべてをどうすれば丁度よい具合にすることができるかは普通は簡単には分からないからです。

 

もちろん、プロフェッショナルはそれを一定のレベルで達成できる腕があるのでプロフェッショナルだと呼ばれるのでしょう。

 

ところで、大団円こそが人の行為における最高に丁度よい具合の結末であると知られます。

 

そして、不思議なことに如来はそれを意識することなくつねに実現することになります。

 

なお、有り体に言えば、如来が敢えて意識してことを為しても、その結果もまた大団円の結末を見ることになるのです。

 

ちなみに、如来の行為が大団円の結末を見ることについては、2023年7月2日の記事に書いています。

 

 

 

このようなことを知ったとき、聡明な人は、丁度よいということだけ見ても衆生のありさまと如来の境地には大きな開きがあることを理解するでしょう。

 

そして、人々(衆生)は誰もが如来になり得る存在であり、それを現実のものにするかどうかはすべて本人次第なのです。

 

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