経典を読むにせよ、静かに省察を行うにせよ、何にせよ、仏道修行中に眠くなってしまうことがあるかも知れません。

 

そして、有り体に言って、そのことを気にする必要は微塵もありません。

 

眠たくなったならば、修行をそこで中断して就寝するなり、あるいは日常に戻るなりすればよいのです。

 

実際、仏道修行とは、自分がまったく知らない境地について追究する行為に他ならず、頭が疲れて眠くなってしまうのも至極当然のことだと言えるでしょう。

 

逆に言えば、仏道修行を為すほどに気が冴えたり、気が高ぶったりするというのでは、それが衆生としての行為の範疇にあることの証左であり、要するに世間的な観念の中においてのみ修行行為を為しているに過ぎないということになるからです。

 

本来の仏道修行とは、世間的な観念を超えて為されるべきものであり、その具体的なことがらが例えば経典を読むことだったりあり得べき省察を行うことであるということなのです。

 

したがって、経典を読む場合、その内容を合理的に理解しようとしても意味はありません。

 

また、経典の内容の全部や一部を完全に記憶するほど読み込んだとしても、それが仏道修行というわけではありません。

 

経典を読むことが仏道修行として成立するというのは、それが覚りの糧になると信じて行うゆえにそうなるということであるからです。

 

経典を読んで眠くなる。そこで、その日は就寝する。

 

翌日、また経典を読む。また眠くなり就寝する。

 

それを繰り返し行うというそのことについての確かなモチベーションが保たれていること、それが仏道修行として成立する根拠のすべてなのです。

 

もちろん、このことはあり得べき省察についても、その他の修行についても同様です。

 

仏道修行者がそのように為す中において、次第次第に功徳が積まれ、覚りの機縁を生じ、ついに覚る(=解脱する)ことになります。

 

これが、仏道修行とその完成の全貌に他なりません。

 

大事なことは、修行者が真実を知ろうとする熱望すること。

 

この点について揺るぎがないならば、修行中に眠くなることなど気にする必要もない、どうでもよいことなのです。

 

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