如来は、ときとして感興の言葉を発します。

 

それは、誰に問われることもなく発せられる句であるので、その場にいた人でさえもその本当の意味や意義を知ることは難しいかも知れません。

 

もちろん、この世には如来に素晴らしい問いを発する人が現れ、その問いに応える形で経が述べられることがあります。

 

これについては、2024年4月7日の記事に書きました。

 

 

 

その一方で、その場に居合わせた人々や直近の出来事とは無関係に、まるで唐突に如来が感興句を発する場合があるのです。

 

この場合、(他の如来を除いて)発せられた感興句の真の意味を理解することができる人は誰もいないでしょう。

 

では、どうして如来はときとしてこのような感興句を発するのでしょうか?

 

それは、如来がその感興句をふと想起したという事実にもとづくことなのです。

 

したがって、それはここでこのことを言っておかなければなるまいなどというような義務感とは無縁であり、しかしだからと言って単なる独り言でもありません。

 

なぜならば、如来が言葉を発したとき、それはすべて待機によるものであり、無量の衆生に向かって発せられたものだからです。

 

なお、このような経の機縁があることは、如来が退屈しない一つの事由ともなっています。

 

同時に、それは如来が長く世に留まろうと思う要因ともなるのです。

 

そして、このような唐突な感興句の中にこそ素晴らしい理法の言葉が多く見られることも事実なのです。

 

この意味において、このような如来の感興句を注意深く読んで理解しようとすることは、法(ダルマ)の真実を知る大きな手掛かりとなると言ってよいでしょう。

 

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