仏道修行者が、ニルヴァーナに至るのだという目標を見失うならば、覚り(=解脱)は難しくなるのは確かでしょう。

しかしながら、それよりも大事なことは、自分自身を見失わないことなのです。

なぜならば、仏道修行者が自分自身を見失うことがなければ直ちに仏を見つけることができるのだと説かれるからです。

これについては、六祖慧能ブッダの著作とされる六祖壇経に次の一節を見ることができます。

「法海はさらに大師に申し上げた。「今後、どんな教えを残して、後世の人にどういうふうに仏を見せてくださるのです」

六祖はいわれる、「聴くがよい、今後、自己を見失った人は、衆生を見つけさえすれば、仏を見ることができる。衆生を見つけなければ、無限を万回くりかえすほど探しても、仏を見ることはできない。今わたしは、君たちに衆生を見つけて仏を見ることを教えるために、『真仏を見て解脱する歌』を残しておく。見失ったら仏は見えぬ。気付けばすぐに見えるのだ」

法海はそれをきくと、後の世に代々広めて途切れさせぬと誓った。

六祖はいわれた。「聞くがよい、そなたに教えておく。後の世の人々が、仏を探そうとするときは、ただ自分の心の衆生を見つけよ、そうすれば、仏を見つけることができる。衆生がいるからこその仏で、衆生を離れて仏はない」

心が見失われると、仏も衆生である。目覚めてみると、衆生も仏である。心が愚かなときは、仏も衆生である。知恵が働くときは、衆生も仏である。心が傾くときは、仏も衆生である。平らかなときは、衆生も仏である。生涯、心が傾きを生ずると、仏は衆生の中に隠れる。一瞬も、心が平らかであれば、衆生がそのまま仏である。自分の心にちゃんと仏がいらっしゃる。自分という仏こそ真仏である。自分に仏心がなければ、どこに仏を探すのか。」(柳田聖山(1980)禅語録 p174,p175(中央公論社・世界の名著 18))

ところで、人々(衆生)はどうして自分を見失ってしまうのでしょうか?

それは、心に濁りがあるためであると言ってよいでしょう。

具体的には、法華経でいうところの五濁(劫濁、衆生濁、煩悩濁、見濁、命濁)ゆえにことであると考えて大過ないでしょう。すなわち、

舎利弗よ、諸仏は五濁の悪世に出現される。五濁とは、長い時間という濁り(劫濁)、本能に基づく心の動揺という濁り(煩悩濁)、生けるものという濁り(衆生濁)、偏った見方という濁り(見濁)、命という濁り(命濁)などである。舎利弗よ、長い時間という濁りのある乱れた時には、生ける者達のけがれは重く、邪険で貪欲であり、嫉妬心深く、諸々の不善の根ばかりを植えているから、諸仏は方便力によって、唯一の仏の立場ではあるがそれを分別して三つに説かれる。(法華経-方便品第二)

なお、ここで諸仏が方便力によって三つに説くというのは、諸仏の現れである法の句が、まるで自分を見失っている人々(衆生)に自分自身を取り戻させようとするはからいのように見えるという意味です。

これについては、六祖壇経に次の一節を見ることができます。

「君たち、わしは忍和尚の下で、一言教えられただけでただちに大悟し、一挙に真の本性にめざめた。そこで、この教えを後の世にひろめて、修行者に一挙に悟らせようとおもうのである。めいめい自分の心顧みて、自分の本性が一挙にめざめるようにすることだ。もし自分で悟れないものは、友人(=大善知識)を求めて見性させてもらわねばならぬ。友人とは何ぞや。最高の乗りものを手に入れて、ずばり道をおしえてくれる人である。友人はまことにすばらしい。そのわけは、教え導いて仏におめにかからせていただけるのである。あらゆる善き教えは、すべて友人のおかげで、はじめて効力を発揮するのである。」(柳田聖山(1980)禅語録 p135,p136(中央公論社・世界の名著 18))

ここで、友人(=大善知識)と言うのは、法の句を聞かせてくれた身近な人、すなわち化身(一瞬の化身仏、善知識と称する)ということになります。

このようなことから、覚りの瞬間とは、自分を見失っている人(衆生)が法の句を機縁として自分自身を取り戻した瞬間に他ならないと言えるのです。

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