覚り(=解脱)は、最初から最後まで各自のことがらであると説かれます。

 

そして、仏道修行者は、自分ならざる何ものにも依拠することなく他ならぬ自らにのみ依拠して道の歩みを進めなくてはならないのです。

 

なお、これについては2024年1月26の記事に書きました。

 

 

 

さて、ここで「自らにのみ依拠して」というのはどのようなことなのでしょうか?

 

それは、別の言い方をすれば従属しないということであると言ってよいでしょう。

 

その意味するところは、釈尊の原始仏典に記されているとおりです。

 

751 「苦しみは動揺の縁から起こる」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。

753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。(ブッダのことば・スッタニパータ 第3 大いなる章 12、二種の観察 中村元訳 岩波文庫)

 

そして、仏道修行者が「従属することのない人」であることは、とくに覚りの機縁に臨んだときに重要なこととなります。

 

すなわち、この機縁において僅かでも自分ならざる何かに依拠する者は覚ることができないからです。

 

つまり、この機縁において自ら仏になることを決心することができた人だけが、解脱するのです。

 

よって、これを「覚悟」とも言います。

 

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