聡明で熱心な仏道修行者といえども衆生であるので、仏教の真髄を正しく理解することはほとんどできないでしょう。

 

このため、修行者が生き身の如来に問いを発しても、彼が思っていたような答えが返ってくることはまずありません。

 

また、彼が仏教について学び、考究し、理解できていると思っていることも、そのほとんどすべてが間違っていることでしょう。

 

それは例えば、幼稚園児が微積分を理解することなどとてもできないようなものなのです。

 

では、仏道修行者の理解不足は修行の障害になるのでしょうか?

 

そんなことはないと言えるのです。

 

たとえば、知恵の輪に取り組んでいる人はまだその知恵の輪が解けていないので、すでに解けた人に自分が行っている操作を例示してその正しさを問うても、すべて間違っているという返答をもらうことになるでしょう。

 

ここで、彼が偶然に正解に近い操作を示したとしても、すでに解いた人はそのことを敢えて指摘することはないでしょう。

 

なぜならば、そのようなことをすれば彼が本当にその知恵の輪を解いたときに、本来味わうはずの感動を生じなくなってしまう恐れが出てくるからです。

 

もちろんこのようなとき、励ましの意味を込めて「いい線を行っているんじゃない」などとぼかした言い方をすることはあるでしょうが、基本的に正解手順に関わることがらについて具体的には触れないようにすることでしょう。

 

ただ、そのようであることが今現在その知恵の輪に取り組んでいる人を尊重し、見守っていることになるのであり、その応援に応えて彼がついにその知恵の輪を解いたならば、彼はその知恵の輪についての完全な解答を得ることができ、同時に感動を味わうことができるでしょう。

 

そして、そのようになるように対応してくれた人に感謝の念を抱くことでしょう。

 

仏道修行者の理解不足も、同様のことです。

 

もろもろの如来は、彼らの理解不足をもちろん分かっており、しかしそれゆえに彼らが正しく仏道修行に勤しんでいるのだと知っているのであり、ときに問いに答えつつ、彼らの修行が完成するのを見守っているのです。

 

したがって、修行者は、自分の理解不足を嘆くには及ばないのです。

 

むしろそうであるゆえに、覚りの機縁に臨んだとき、〈特殊な感動〉と同時に智慧を生じることができるに違いないからです。

 

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