仏道修行は、基本的に楽しみと栄えとともに為されるものです。

 

そして、修行の楽しみとは具体的にはどのようなものであるのかについては、2023年12月13日の記事に書きました。

 

 

 

今回は、仏道修行の楽しみがどのように実感され、それが仏道修行本来の楽しみであるかどうかについて述べます。

 

さて、仏道修行において実感される楽しみは、多くは仏道修行本来の楽しみにまつわるものではなく、むしろ世間的な感覚を引きずった形で感じられるものとなるでしょう。

 

具体的に言えば、修行期間の長さであったり、読んだ経典の量であったり、世間の人々に方便の説を語り聞かせた数などの、量ることができるもの、優劣を付けられるものであって、その多寡や高低深浅に満足して楽しみを覚えたということになる場合がほとんどであると言って間違いでしょう。

 

もちろん、これらのことがらは本質的に仏教とは無関係のことがらであり、それらが功徳に直結しているわけではありません。

 

それでも、修行者にとって楽しみとして実感されていることは疑いなく、しかもそのような楽しみを継続して味わおうとする気持ちにしたがった結果、あり得べき遍歴修行が為され、最終的に因縁を生じて作仏してしまうことが通常なのです。

 

したがって、仏道修行にまつわる楽しみを感じたならば、それは彼の仏道修行が正しいことの一つの証左であると言ってもあながち間違いではないでしょう。

 

要するに、大事なことは仏道修行を継続して行うことであると言うことなのです。

 

そして、そうこうしていうちに仏道の本流に出会い、合流し、それまでの修行を見直そうとする動機が起こり、発心して、修行が大きく進むことになるのです。

 

ただし、気をつけなければならないことは、自分ではその修行を楽しんでいるように感じていても、実際には苦しんでいる場合があることです。

 

それは、いわば中毒のようなものであり、仏道修行ならざるものを仏道修行であると見なし、固執することによって起こります。

 

その弁別をするには、次のことを点検すると良いでしょう。

 

「その修行を実践することによって、(自分を含めて)誰かを悲しませていないかどうか」

 

点検してもそのようなことが見られないならば、正しく仏道修行を実践していると考えて良いのです。

 

その道を進めば、この円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達することができるでしょう。

 

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