人生においては、とくに転機というべき瞬間においては、臨機応変に対処することが大事だと言えるでしょう。

 

そして、これは仏道修行者にとっても当て嵌まります。

 

この仏道修行者にとっての重大な転機を、覚りの機縁と称します。

 

ところで、仏道修行者が実際に覚りの機縁に臨んで臨機応変にことを処するのは決して容易なことではありません。

 

なぜならば、修行者にとって覚りの機縁を自覚することそれ自体が極めて困難であるからです。

 

と言うのは、世に希有なる法の句は基本的に平易な言葉で、意外な人物が、まるで不意に世に出現せしめるものだからです。

 

しっかりと功徳を積んだ修行者でなければ、せっかくの覚りの機縁を見逃してしまうことでしょう。

 

ただ、立派な修行者がそれを見事に察知して臨機応変な対応を成し、作仏を為し遂げるのです。

 

しかも彼は、自分が臨機応変な対応を為してその希有なる機縁に対応したことを自覚することさえないでしょう。

 

何となれば、そのような無心(六祖慧能ブッダがいうところの素直な心)の対応こそが覚りの道における臨機応変な対応に他ならないからです。

 

このため、上手に覚ってやろうなどという者ほど臨機応変な対応をすることができません。

 

ちなみに、ここで重要なことは意外な人物が法の句を発するという事実です。
 
このため、仏道修行者は目の前の人については次のように見るべきであると説かれるのです。

 

「目の前の人が誰であろうとも、彼がいなければ自分が為したいことができなくなってしまうのだ」

ここにおいて他の人を正しく見ようとする眼を生じ、それが臨機応変な対応、引いては自分自身の作仏へと繋がって行くのです。

 

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