仏道修行の目的は、もちろん自分自身が覚って仏になることです。
そして、そのための仏道修行は、自分自身を最優先にして行うべきことが説かれます。
これについて、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。
68 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行ないに怠ることなく、堅固な活動を為し、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。(ブッダのことば・スッタニパータ 第1 蛇の章3、犀(さい)の角 中村元訳 岩波文庫)
166 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。 自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。(真理のことば・ダンマパダ 第十二章 自己 中村元訳 岩波文庫)
しかしながら、もちろん、自分自身を最優先することは手前勝手に行ったり他の人々を押しのけて覚りの糧を貪ることではありません。
そこで、もろもろの如来は、修行者は理法(ことわり)に適った形で修行に勤しむべきことを説くのです。
69 独座と禅定とを捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行ない{省みて}、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。(ブッダのことば・スッタニパータ 第1 蛇の章3、犀(さい)の角 中村元訳 岩波文庫)
186 [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。(ブッダのことば・スッタニパータ 第1 蛇の章 10、アーラブァカという神霊 中村元訳 岩波文庫)
そして、理法を知り、理法にしたがって道を歩む人こそが仏道修行の目的をしっかりと保っている修行者であり、そうでない者は手段を選ばないで欲望を果たそうとする俗物に過ぎないのです。
これについて、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。
324 いかなる戒めをまもり、いかなる行ないを為し、いかなる行為を増大せしめるならば、人は正しく安立し、また最上の目的を達し得るのであろうか。
325 長上を敬い、嫉むな。諸々の師に見えるのに適当な時を知り、法に関する話しを聞くのに正しい時機を知れ。みごとに説かれたことを謹んで聞け。(ブッダのことば・スッタニパータ 第2 小なる章 9、いかなる戒めを 中村元訳 岩波文庫)
ここで、「みごとに説かれたことを謹んで聞け」というのは、世に希有なる「法の句」を聞き逃さないようにせよという意味であるとして大過ないでしょう。
何となれば、仏道修行の目的を果たすための最も重要な機縁となるのが法の句に他ならないからです。
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