仏道修行者は、覚りたいという気持ちを持って修行に勤しんでいることでしょう。

 

ただ、覚り(=解脱)がどのようなものであるのかは知らないのは当然のことです。

 

よって、熱心な仏道修行者といえども、よく知らない境地に向かって修行を進めている状態にあるわけです。

 

そのため、仏道修行者が修行を続けることに疑問を持ったり、中断してしまう人も出てきます。

 

実際、これは無理からぬことであり、疑問が高じて世間の苦悩を脱れるための仏道修行を苦痛に感じてしまう瞬間も少なからずあろうからです。

 

そして、現実に、世俗の楽しみを望んで苦悩の世に舞い戻ってしまう者も出てくるのです。

 

もろもろの如来は、そのような残念がことがあることを承知の上で、むしろ衆生とは誘惑に負けやすい性質のものであることを知っているがゆえに、人々(衆生)が覚りを目指して仏道修行に勤しむ心を起こすことを称賛するのです。

 

なぜならば、人々(衆生)がたとえ短期間でも仏道修行に勤しむことは、この世ではあり得ないほど素晴らしいことだと知っているからです。

 

まして、仏道修行に邁進する人であればなおさらです。

 

これについては、例えば法華経-方便品第二の一節を挙げることができるでしょう。

 

「〜諸仏が世に出られる事は、遥かに遠くして遇う事は難しい。たとい世に出られたとしても、この教えを説かれるという事がまた難しい。無量無数劫を経ても、この教えを聞く事は難しい。よくこの教えを聴く者達もまた得がたい。例えばすべての人々が愛し楽しみ、天人や人間の珍重する優曇華(ウドゥン.バラ)の花が、長い間にたった一度だけ咲き出る様なものである。教えを聞いて歓喜し、一言でもそれを語るなら、それだけで既に一切の三世の仏を供養した事になる。この様な人が甚だまれであること、優曇華の花以上である。〜」

 

本当のところ、釈尊以来、覚る(=作仏する)ことができた人は多くても数十人程度であろうと思われます。

 

ただ、覚る人が少ない理由はそれが籤に当たるようなものだからではなく、本人の求道の気持ちの有無によるものであることは間違いありません。

 

要するに、真にニルヴァーナを求める人が非常に少ないということなのです。

 

ところで、実際に覚った人は、人生のどこかの時点で覚りたいという気持ちを持ったことは確かです。

 

その気持ちがニルヴァーナを心から求めることに繋がり、次第次第に功徳が積まれて、ついに作仏したということで間違いないでしょう。

 

この意味において、仏教に興味を持ったり、実際に覚りたいという気持ちを抱く人があるというのは、それ自体が不可思議であり、本当に素晴らしいことだと言えるのです。

 

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