誰であろうとも、何かに気を取られていると危険が迫っていることを察知することは難しいでしょう。

 

これを拡張したとき、何かを気にしている人は、気をつけることが難しいということが言えるでしょう。

 

そして、仏道修行者が何かを気にしていると、今まさに覚りの機縁に臨んでいてもそれを認知することが難しくなり、覚り(=解脱)の機会を見逃してしまうことになるでしょう。

 

このため、仏道修行者は「無心」で修行に勤しむべきであると説かれるのですが、これは気をつけていることとは相反しないのです。

 

実際、立派な修行者は、どんなに修行に打ち込んでいてもよく気をつけていて、覚りの機縁を生じたときにはそのことを周到に察知することができ、それだけでなくまさしく気をつけることを得て、智慧を生じ、覚り(=解脱)に至ると期待されるのです。

 

さて、ここで、気にすることと気をつけることとの関連について述べます。

 

仏道修行者が何かを気にしていると覚ることに難を生じてしまうというのは、その気にしていることが覚りの機縁にまつわることがらであったとしても、気をつけていることができないことを意味しています。

 

すなわち、覚りのメカニズムについてつねに気にしていたとしても、実際に覚りの機縁を生じたときには、それが知識として知っているメカニズムと同じであるとか、その機縁の先に智慧を生じるというプロセスが待っているとか考えてしまい、そのために作仏に必要な気をつけることがお座なりになってしまうということなのです。

 

例えば、囲碁や将棋の棋士は、定石について精通していることはもちろん必要ですが、それは「憶えて忘れろ」と言われます。

 

なぜならば、棋士が定石の一々にとらわれているようでは、目の前の勝負についての最良の手を導き出すことが難しくなってしまうからです。

 

仏道修行も同様です。

 

覚り(=解脱)がどのように起こるものであるかという知識はあるに越したことはないのですが、その知識に振り回されて、眼前に出現した法の句の本当の意味や意義について参究する気持ちを散じてしまうようであるならば、それでは知識は却って覚りの障害になってしまうのです。

 

この機微については、釈尊の原始仏典に次の理法を見ることができます。

 

296 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。

297 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。

298 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。

299 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。

300 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。

301 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。(真理のことば・ダンマパダ  第二一章 さまざまなこと 中村元訳 岩波文庫)
 

ここで、「覚醒している」とは「気をつけている」ことを意味しています。

 

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