人生、余裕があるに越したことはないと信じられていることでしょう

 

ところが、人(衆生)は、皮肉なことに余裕があるゆえに却って余裕がない事態に陥ってしまいやすいのです。

 

と言うのは、余裕を持って為したことによって充分な満足を得ることができず、そのために混乱し、それが高じて自分でも知らずに支離滅裂な行動に走ってしまうことになってしまい、結果的に元も子もない、余裕のない事態に追い込まれてしまうからです。

 

ちなみに、世人がこのようなことに陥ってしまう根底の理由は、余裕が欲望に結びついてしまうことによるものです。

 

これについては、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。

 

1 愛欲よ。わたしは汝の本を知っている。愛欲よ。汝は思いから生じる。私は汝のことを思わないであろう。そうすれば、わたしにとって汝はもはや現れないであろう。

2 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

3 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば、憂いが存在しないどうして恐れることがあろうか。

4 果実が熟したならば、尖端は甘美であるが、喜んで味わってみると辛い。 愛欲は愚かなる者どもを焼きつくす。──たいまつを放さない人の手を、たいまつが焼くように。

5、6 鉄や木材や麻紐でつくらせた枷を聖者たちは堅固な縛めとは呼ばない。心が愛欲に染まり愚鈍な人が、妻や子にひかれること、──これが堅固な縛めであると、聖者たちは呼ぶ。それはあらゆる点で極めて堅固であって、脱れ難い。 かれらはこれさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。

7 世間における種々の美麗なるものが欲望なのではない。欲望は人間の思いと欲情なのである。世間における種々の美麗なるものはそのままいつも存続している。しかし思慮ある人々はそれらに対する欲望を制してみちびくのである。(感興のことば・ウダーナヴァルガ 第二章 愛欲 中村元訳 岩波文庫)

 

別の仏典には

 

64 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。

65 聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。──舌が汁の味をただちに知るように。

66 あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実を結ぶ。(真理のことば・ダンマパダ 第五章 愚かな人 中村元訳 岩波文庫)

 

さて、衆生がこのようなことに陥ってしまわないようにと説かれた理法(ことわり)が、徳行に篤く精霊すべきであるということです。

 

ここで徳行とは、「堪え忍ぶこと」「誠実であること」「慳みしないこと」「自制すること」を指しています。

 

すなわち、余裕をこのようなことがらに振り向けることによって、それが暴走の種になることを未然に防ぎ、かつ功徳を積むことに繋がるようにしようとするものです。

 

そして、余裕がない人が敢えて徳行を行えば、さらに大きな功徳が積まれることが説かれるのです。

 

〔あるとき尊師は〕、サーヴァッティ市のジェータ林・〔孤独なる人々に食を給する長者〕の園に住しておられた。

そのとき多くのサトゥッラパ群神たちは、夜が更けてから、容色うるわしく、ジェータ林を遍く照らして、尊師のもとにおもむいた。 近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに立った。

傍らに立った或る神は、尊師のもとで、ひとり喜んでこのように語った。 ──

 「友よ。〈与える〉というのは、善いことだ。ものおしみと怠惰のゆえに、このように施与はなされない。功徳を望んで期待し道理を識別する人によって、施与がなされるのである」と。

そこで、他の在る神は、尊師のもとで、ひとり喜んでこのように語った。 ──

 「友よ。〈与える〉というのは、善いことだ。たとい乏しき中からでも、与えるというのは、善いことだ。或る人々は、乏しき中からわかち与え、或る人々は、豊かであっても与えようとしない。乏しき中からわかち与えたならば、千倍にも等しいと量られる」と。(神々との対話・サンユッタ・ニカーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫)

 

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