若い頃は、誰もが血気にはやり、思慮を欠いた行動を取ってしまうものでしょう。

 

これを、やや誇張して「若気の至り」などと言う人もあるようです。

 

そして、仏道修行に勤しむことにおいても若さゆえの見当違いということが多々見られるものです。

 

そもそも、若い修行者はどうすれば覚りに至るのかということを知りません。

 

このため、手当たり次第にいろいろな修行法に手を染めてしまうということが起こります。

 

そうこうしているうちに、ある者は道の歩みから逸れ、手前勝手な理屈をこねては仏教ならざるものを信奉し、精神を病み、場合によっては破滅してしまう場合もあるようです。

 

 

ここまで極端ではないにせよ、ある修行者は、自分が若い頃に抱いた思慮の浅いことがらにそのまま固着し、それをひきずった形で仏道ならざるものを仏道だと見なしたまま数十年の時間を過ごしてしまいます。

 

あるいは、仏教の枝葉末節にこだわった教説を奉じて根本の修行を為さず、しかも教説の先にニルヴァーナが存在していると信じこんでいる場合もあるようです。

 

このような哀れむべき事態を生じてしまうのは、もちろん若さゆえのことでしょうが、それなりの年齢に達してもなお自分の見当違いに気づかないというのはそもそも本人が目指していたものがニルヴァーナではなかったということになるのでしょう。

 

その一方で、こころからニルヴァーナに至ることを目指している人は、若さゆえの数多の見当違いを経つつも次第次第にこの一なる道、すなわち仏道へと近づき合流することを得て、ついにはニルヴァーナへと至ることになるのです。

 

ちなみに、釈尊は、この一なる道について次のような理法を説いています。

 

274 これこそ道である。(真理を)見るはたらきをきよめるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。

275 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

276 汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

 

(中略)

 

280 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがついにない。

 

(後略)

 

(真理のことば・ダンマパダ 第二十章 道 中村元訳 岩波文庫)

 

要するに、仏教は、しあわせの境地を目指す修行者にも若気の至りがあることを承知の上で理法を説いている方便の説に他ならないのです。

 

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