「仏道修行のクオリティを向上せしめることは、覚る(=解脱する)ために必要なことなのでしょうか?」

 

微妙な問いですが、あると言えばある、ないと言えばないということになるでしょう。

 

あると言えばあるというのは、例えば方便の説を他の人に伝えるときに、本意ではない、誤ったことがらを伝えてしまうならば、それでは功徳を積むどころではないということを意味しています。

 

また、ないと言えばないというのは、例えば方便の説を他の人に伝えるときに、それがうろ覚えであったとしても、自分自身その説を心から素晴らしいものであると思っていて、その溢れる想いを以て他の人に伝えるならば、それがその方便説の本意を伝えたことになるに違いないであろうということを意味しています。

 

そして、その他の仏道修行においても、一々のクオリティにこだわる必要はなく、大事なことは本意を損なわないように心掛けることであると言って大過ないでしょう。

 

要するに、論語読みの論語知らずになってしまっては本末転倒であるということです。

 

また、修行のクオリティにこだわった結果、手段が目的化してしまったり、あるいは怪しげな修行に手を染めてしまうようではそもそも仏道修行に勤しんでいることにはなりません。

 

このような愚行に陥らないためには、次のことを理解しておくことが役立つでしょう。

 

・ 仏とは真実のやさしさの相に他ならない。それを目指すことが仏道修行の目的である。

 

・ 仏の行とは、行為において(自分を含めて)いかなる人をも悲しませないことを言う。仏道修行者も、自分が分かる限りにおいてそのようであるべきであり、悲しませる恐れが僅かでもあるならばすでに道を踏み外していると考えて省察すべきである。

 

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