大人であれば、特定の誰かを「自分にとって特別な人」だと思ったことがあることでしょう。
そして、この特別な人は、人生の節目節目で大きな影響を与えて来たことでしょう。
さて、人はなぜ特定の誰かを特別な人として認知するようになるのでしょうか?
その本当の理由を説明することは難しいでしょう。
なぜならば、これは理屈ではなく、要するに気がついたらその人を「特別な人」だと思うようになっていたということが通常だからです。
もちろん、振り返って考えたとき、それが各自の好みや趣味趣向、幼少の時の思い出に関連することがら、あるいは自分の理想に照らしてピッタリの人であったなどということに起因しているなどと思い当たることもあるでしょうが、そのような場合でも、それで特別な人の特別感を説明するには不十分でしょう。
ところで、仏道修行者にとって、世に希有なる「法の句」が特別中の特別なものであることは疑いないことです。
にもかかわらず、修行者が耳にした法の句を「法の句」として正しく認知することは極めて難しいのです。
功徳を充分に積んだ修行者だけが、それを正しく認知して、ついに覚る(=解脱する)のです。
すなわち、世人が「特別な人」を認知するのには成長の度合いが大きく関わっているように、修行者が「法の句」を認知するには功徳を積んでいるかどうかがその決め手になるということなのです。
そこで、禅の六祖=慧能ブッダは、功徳を次のように説明するのです。
「功徳とは、見性することに巧みであり、素直なこころが徳そのものであることを云う。」
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