悪人とはどのような人を指しているのでしょうか。

 

世間的なことではなく、仏教における悪人とはつまるところ悪をどうしても止めることができない人のことを言うと考えて大過ないでしょう。

 

このとき、悪人が悪を理解しているかどうかは関係がありません。

 

実際、悪を悪だと思わず、悪を善だと思い込んでいる人ほど大きな悪を為すことになるでしょう。

 

本人は、悪を善だと思い込んでいるために悪を為すに際限が無く、容赦することもありません。

 

その結果、恐ろしい悪を成し遂げてしまうことになるのです。

 

これについて、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。

 

4 世間のうちにある患いを見て、汚れの無いことわりを知って、聖者は悪を楽しまない。悪人は浄らかなことを楽しまない。(感興のことば・ウダーナヴァルガ 第二八章 悪 中村元訳 岩波文庫)

 

17 善人は善を為し易い。悪人は善を為し難い。悪人は悪を為し易い。聖者は悪を為し難い。

19 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭うのである。(感興のことば・ウダーナヴァルガ 第二八章 悪 中村元訳 岩波文庫)

別の仏典には、

 

94 「悪い人々を愛し、善き人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破壊への門である。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第1 蛇の章 6、破滅 中村元訳 岩波文庫)

 

このようなことから、悪人は覚り(=解脱)に向かう心を起こすことがなく、ついには破滅してしまいます。

 

では、どうすれば悪を知り悪から離れることができるのでしょうか?

 

それは、悪について無理に知ろうとせず、善を知ろうとすることについても同様であり、正しく説かれた理法を聞き、理解して、善悪の軛そのものを超えるべきことがその答えとなるでしょう。

 

端的に言えば、「真実を知ろうと熱望すること」がそれに当たると言ってよいでしょう。

 

そうすることによって善人には親しまれ、悪人は遠ざかり、世に希有なる善知識(化身)との邂逅を果たすことができるでしょう。

 

そこにおいて功徳が積まれているならば、自らの因縁によって覚る(=解脱する)ことを得るのです。

 

そのとき、悪人の何たるかについても本当のことを知ることになるでしょう。

 

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