ちょっと見には、大団円の結末と関係者の忖度による希望の達成は似ています。

 

ただし、根本的に違う点は、忖度による希望の達成が希望者を完全には満足させることができないのに対して、大団円の結末は当人だけでなく関係者においても、ギャラリーにおいても、果ては未来のすべての人々においても完全な満足をもたらすことになるということです。

 

要するに、人の忖度には限界や制約があるのに対して、大団円の結末を見る場合にはその結末をもたらすためにこの世のあらゆることがらがそれに向かって指向することになるという不可思議なる特徴があるのです。

 

このため、大団円の結末は当人の希望を超えた結果となり、希望することがそもそもなくても素晴らしい結果をもたらし、かと言って何かに突き動かされて見かけだけ希望しているわけでもないのです。

 

大団円は、あくまでも意識としては当人の意思によって為されたことがらであり、しかしその顛末と帰趨についてはまるで最初から素晴らしい展開が決まっていたかのように見えるものなのです。

 

また、大団円では、忖度のように関係者の考え違いや行き違いを生じることはなく、すべての人々が同じ結末をイメージしていたかのように物事が進行して行きます。

 

その際、善き人には善きことが起こり、悪しき者には恐ろしい報いがあるでしょう。

 

ただ、それもまた大団円の結末の一部であり、勧善懲悪というわけではありませんが、それぞれの人がそれぞれ行き着くべき処に向かうことになるのです。

 

例えば、育てる人には当然に実りがもたらされ、火を弄ぶ者は自ら大火傷を負って長く苦しむようなものです。

 

ちなみに、忖度は善ならざるものであり、たとえ善かれと思って忖度したとしても、その結末は自分でも思いも寄らない悪処となるでしょう。

 

このため、仏教では「無心」に為すべきことが説かれるのです。

 

この無心こそが大団円の結末を生じる根本のものであり、もろもろの如来の行為が大団円の結末を見るのは、如来がつねに無心で事を為すためなのです。

 

よって、衆生であっても無心で為すならば、必ず大団円の結末を見ることになるでしょう。

 

この意味において、大団円は如来だけが持つ特性ではなく、この世の一つの真理であると言えるのです。

 

気をつけている人は、この真理を自ら体験することを得、以て仏教への信を深め、次第次第に功徳を積んで、ついに作仏することになるでしょう。

 

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