私が子供のころ、両親が創価学会員だったこともあり経典と言えば「法華経」のことを指していましたし、それしか知りませんでした。しかも、法華経を知っているとは言っても、日蓮独自の解釈を創価学会の活動の中で聞かされていただけの中途半端な知識に過ぎませんでした。

 

高校二年性の夏、私は思うところがあって創価学会の活動を完全に止めました。そのため、仏教との関わりは一旦途切れることになりました。

 

さて、成人して仏教に再び興味を持ち調べていると、大乗仏典と呼ばれる一群の仏典があることを知りました。

 

その中には、私も名前だけは知っていた「法華経」がありました。

 

創価学会では法華経を唯一無二の仏典であるかのように吹聴しているのですが、実際には法華経が大乗仏典の中の一つに過ぎないことをここで初めて知りました。

 

そして、首記の疑問が浮かびました。

 

「大乗仏典は、なぜ沢山あるのだろう?」

「どんな理由で創価学会では法華経を信奉していたのだろうか?」

 

この疑問を解決するためにはそれぞれの大乗仏典についてさらに調べる必要がありましたが、当時、本を読んだ程度ではその本当のところは分かりませんでした。

 

さて、その20年ほど後、私は覚って仏となりました。そうして、主要な大乗仏典についてもう一度調べて見ました。

 

その結果、それぞれの大乗仏典は、それを著したそれぞれの仏の世界観を反映したものであろうということが分かりました。

 

つまり、人々(衆生)が覚って仏となるために必要となる基礎知識や仏道修行のやり方や注意点について、それぞれの仏がそれぞれの世界観に基づいて物語性を持たせて著した仏教作品群となっているということです。

 

そして、これらが釈尊の原始仏典とは違った印象を受ける理由は、釈尊の仏典が口伝を元にした話し言葉で記されているのに対して、多くの大乗仏典は書き言葉を用いた物語作品として書かれているという違いにあると考えられ得るということです。(いわゆるエクリチュール説)

 

また、大乗仏典は、その時代や国に生き身の仏がいなくても人々が仏道修行を行うことができるように配慮して、むしろそれを目的として著されているという見方もできるでしょう。

 

であれば、経典の数は沢山あった方が人々の役に立つ可能性が高まるし、またそれぞれの経典の内容は互いに独立性が保証されることとなり、布教の利点とすることもできるでしょう。

 

例えば、人の情愛を表現する手段が、小説や映画、テレビドラマ、演劇、歌、詩、その他いろいろとあっても構わないどころか、多岐に亘ることがその時代や国の文化的な豊かさを示す一つの尺度になるようなものです。そして、この場合もそれぞれの作品の内容は独立性が保たれています。

 

すなわち、人々が自分の好みの文芸作品を楽しみそれによって細やかな情愛の意味について理解を深めるように、大乗経典群は修行者が好きな経典を選びそれによって覚りを目指し仏になれば良いというメッセージを含んでいると言えるでしょう。

 

往時、このような立場で経典の製作を履行した結果、沢山の大乗仏典が著されるに至ったと考えることができるでしょう。

 

***