昭和30年代から50年代に掛けての日本では珍しくなかったと思いますが、私は両親が創価学会員の家に生まれました。

 

また、小学生の時にはすでに父親が地区の長(大B長)をしていたこともあって、自宅では二三日毎に座談会などの集会が催され、その間は私と弟は別の部屋に待機させられていました。

 

小学校高学年になるといわゆる勤行を朝晩行うように勧められ、休日には少年部の集会に出るように言われました。これは高校生になっても続き、その頃には同年代の子供たちを集会に誘う活動に参加させられました。要するに、仏教に何の興味もないのに、ほぼ無理やり創価学会の活動に参加させられるという状態でした。

 

そして、高校二年生になったとき、私は創価学会と決別する決断をしました。

 

「こんなことをいくらやっても無駄!」

 

当時、心理学関連の書籍を読み漁っていた私は、今後人生の悩みを解決する必要があるとしても、宗教ではなく学問的な方法によってそれを行う決心をしたのです。

 

このような経緯で、その後数年間は仏教にまったく触れない生活を送りました。

 

その私が、再び仏教に興味を持つことになったのには切っ掛けがあります。

 

諸星大二郎作のコミックに「西遊妖猿伝」というタイトルがあるのですが、その中に玄奘三蔵が天竺に行って勉強する決心をする動機となる出来事が描かれていました。まだ学生だった玄奘は言います。

 

「どうして意識の下に末那識と阿頼耶識という二つあるのだろう?」

 

これを読んで、私は思いました。

 

「なぜ二つあると分かったのだろう?」

 

そんなことを考えていたある日、久しぶりに実家に帰郷した私が弟にこの話をすると、

 

「それは九識論のことだ」

 

と言うのです。弟は、大学のサークル活動で仏教について勉強していたらしく、私が知らなかったことを教えてくれました。

 

また、このとき、私はユング心理学(分析心理学)の勉強をしている最中で、その中に出てくる無意識の区分、すなわち個人的な無意識と集合的無意識という二つの無意識と、九識論(原典は八識論)が語る意識下の二つの識とが対応するのではないかと直観しました。

 

そこで、仏教についてもう一度調べてみようと思い立ちました。そして、結果的にこの出来事が仏教について深く探求する切っ掛けとなり、この40年ほど後に作仏することとなったのです。しかも、私が一番嫌いだった法華経に縁があったことを作仏後に知ることになります。

 

この切っ掛けがなければ、私が仏教に深く興味を抱くことはなかったでしょう。すなわち、仏縁を生じる切っ掛けはまことに不可思議なものだということです。

 

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