私が覚りへの道を歩む上で重要な役割を果たしたものの一つに、久松真一氏の基本的公案があります。

 

すなわち、「どうしてもいけなければどうするか」という公案です。

 

ちなみに、この公案について久松真一氏自身が次のような注釈をつけているとのことでした。(以下は、FAS協会のホームページから引用)

「どういう在り方でも、われわれの現実の在り方は、特定の在り方であり、何かである。何かである限り、何かに限定され繋縛された自己である。何ものにも繋縛されない自己、それをまずわれわれは自覚しなければならない。」

「立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか」

「ここに窮して変じ、変じて通ずる最後的な一関があるのである。禅には、古来千七百どころか無数の古則公案があるが、それらは結局この一関に帰するであろう。」

『絶対危機と復活』(著作集第2巻、法蔵館)より(p.191) 

 

 

私がこの公案を解いて思ったのは、間違いなくこの公案は公案群の究極に位置するものだということでした。
 
なぜならば、私がこの基本的公案を解いたとき同時に〈特殊な感動〉を生じ、次いで心解脱を生じましたが、これを生じることができるのはこの基本的公案に限られると断言できるからです。
 
そして、おそらく久松真一氏自身も類似の解脱を果たしていたであろうことを理解しました。
 
例えば、久松真一氏は生前、「私は死なない」という言葉を周りの人達によく言っていたらしいのですが、その意味するところが何であったのかについて納得できる答えを得ました。これは、心解脱あるいはそれに類似の解脱を果たしていない限り確信を持って主張できないことです。
 
また、彼が、この公案は全人類に解いて欲しい公案だと言っていたらしいことの理由も分かりました。この見解については、私も同感です。これは、覚りを目標にしない人であってもチャレンジして欲しいと思えます。なぜならば、この公案は人の尊厳に関わるものだからです。
 
ところで、私は基本的公案を解いた2日後、これとは別の機縁によって慧解脱を果たしブッダとなりました。そのとき、久松真一氏が基本的公案をおそらく完全には解いていないことも理解しました。ここでは詳細は述べませんが、それは彼の生前の言動や振る舞いから推定できるということは指摘しておきます。
 

ところで、久松真一氏のあるお弟子さんが、もしこの文言の最後に敢えて何かを付け加えるとすればそれは「!」になるだろうと述べた、という話を聞いたことがあります。

 

しかしながら、そうしてしまうと基本的公案としては不完全なものになってしまうのは明らかです。逆に言えば、そのようなことをしてはならない理由を明確に指摘できる人は、基本的公案の本当のところをよく理解していると言えるでしょう。

 

要するに、基本的公案は、どうあっても「どうしてもいけなければどうするか」という形で解かなければ意味がないということです。

 

なお、基本的公案を解けば必ず解脱できるというわけではありません。基本的公案を解くことは、ある人にとっては心解脱の一つの機縁になり得るということに過ぎないからです。

 

そのような場合でも、心解脱を果たすのに最重要なことは公案が解けたという事実ではなく、解くと同時に〈特殊な感動〉を生じたということです。修行者はこれによってある重大な決心を為し遂げることができ、それが心解脱を果たした証左となるのです。彼は生涯、世間のことがらに悩まされることはないでしょう。

 

勘違いしてはならないことは、基本的公案をパズルを解くように解いてはならないということです。答えが分かったとか、これしかない見解に達したとか、自分は他の人の知らないことを知り得たなどと言ったり感じたりするのは、すべてこの公案が解けていない証拠となります。基本的公案はそのようなものではなく、心のあり得べき変容をもたらす働きを為すものであることは間違いないからです。

 

そして、まさにそのことが、この公案の文言の最後に「!」を決して付け加えてはならないことの理由となるのです。

 

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