仏道を知らない人(衆生)は、善悪の軛にとらわれ、そうとは知らずにしあわせの境地ではない境涯に向かうになります。
すなわち、善行は福徳の因となり、悪行は悪処へと赴く業となるということです。
ここで、多くの衆生の困ったところは、善悪しか知らない点にあると言って過言ではないでしょう。
ただ、いとも聡明な人だけが、善悪とは違う善の善なるものを求めて道を歩み、次第次第に功徳を積んで、ついに不滅のニルヴァーナへと到達することになるのです。
もちろん、生まれながらにしてこの一なる道の存在を知っている人はおらず、善悪の軛を離れようとする動機を生じることそれ自体が困難であると言えるでしょう。
では、聡明な人はどうしてこのことを知り、道を歩む決心を為し得たのでしょうか?
それは、彼自身がこころからしあわせになることを願い求め、省察し、その結果、世の善悪の軛がそこに近づき至る道ではないことを察することを得たということなのでしょう。
それと同時に、禁欲や苦行もまたその道とはならないことを理解しているでしょう。
そのような聡明な人が、知らず知らずのうちに中道を歩み得て、福徳を超えた功徳を積み、さらに明知が研ぎ澄まされてこの一なる道をハッキリと見出し、歩みを堅固ならしめて、まっすぐにニルヴァーナへと近づき至ることになるのです。
ところで、善悪の軛は喜怒哀楽へと結びつく一方で、善の善なるものを求める道はそれらを離れた静けさへと結びついていくものです。
その先において覚りの機縁を生じ、ついに覚る(=解脱する)ことになるのです。
この安らけく境地について、釈尊は次のように説いています。
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。なぜならば、諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見たのである。」
838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎを見た>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」
839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)
840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」
841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説く真理を)『ばかばかしい』とみなすのです。(ブッダのことば・スッタニパータ 第4 八つの詩句の章 9、マーガンディヤ 中村元訳 岩波文庫)
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