「基本的に、人であれば誰もが覚り得る。」

 

それを説くのが仏教です。

 

ただし、この指摘は、その気になりさえすれば誰もが覚ることができるというような意味ではありません。

 

なぜならば、実際に人が覚るためにはしっかりと功徳を積まなければなりませんが、現実問題として、功徳を積むということは決して容易なことではないのです。

 

もちろん、仏典には、功徳を積むことに関するいろいろなことがらが述べられています。

 

その中には徳行(堪え忍ぶこと、誠実であること、慳みしないこと、自制すること)のように具体的なものもありあす。

 

あるいは、例えば維摩経や法華経のように、方便の説を他の人々に伝えることによって無量の功徳を積むことができると説かれているものもあります。

 

しかしながら、それらのことがらを誰かに言われたままに行うようなことをするのでは、とても功徳を積むことはできないのです。

 

例えば、字が上手く書けるようになるには沢山練習すればよいと言われます。

 

しかし、心構え正しくそれを行わない限り、練習すればするほど癖字になってしまうことでしょう。

 

同様に、しあわせの境地たるニルヴァーナに至ることを目指して功徳を積もうとしても、当人の根底が心構え正しくなければ、それでは修行を完成させることは難しくなってしまうのです。

 

では、どのように根底を極めれば良いのでしょうか?

 

その重要な一つとして、人の尊厳を疎かにしないということを挙げることができるでしょう。

 

そして、「人は誰もが覚り得るということ」は、この尊厳の本質が分かった上で理解すべきことなのです。

 

実際、仏道修行者が覚りの機縁に臨んだとき、人の尊厳をどのように考えているかということが彼の覚り(=解脱)の是非可否に大きく関係してくることになります。

 

この意味において、仏教は、人が覚って仏になることについての教えであるということを忘れてはならないのです。

 

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