人(衆生)は、苦に住しながら苦の本質や根源を知らず、その結果、一生を苦に喘いで過ごしています。
それだけでなく、苦あるゆえに楽があるなどと誤解しており、苦を回避しようとはするものの苦を根源を抜本的に滅しようとは思わないのが通常見られる衆生の姿です。
しかしながら、実はこの一切の苦悩を脱落終滅せしめることができ得るのであり、その道を説くのが仏教です。
具体的には、人の究極のしあわせの境地たるニルヴァーナの実在を信じ、しっかりと功徳を積む人が、覚りの機縁と因縁を生じてついに覚り(=解脱)、仏となるということです。
ただし、これを実現するためには、苦の覚知——人々(衆生)が苦に住しているという事実を明らかに知ること——が必要であり、その上で仏道修行に勤しまなければなりません。
なぜならば、そうでない限り功徳をしっかりと積むことは難しいからです。
すなわち、苦の覚知こそが覚りの道の実質的な出発点になるということです。
このため、もろもろの如来は人々(衆生)に向けて苦諦を説き、この一切の苦悩から脱れることを勧めるのです。
ただ、それでも多くの人々は如来が苦諦を説く意味と意義とを理解せず、まるで自分が楽園の住人であるかのように振る舞う者もあり、そうでなくても自分が置かれている立場の危うさとを知らずにいるのです。
この姿を見て、例えば法華経では「三車火宅の譬え」を説いて、衆生の有り様と迫り来る恐怖を説明した上で、かつそれから脱れせしめるための方便の説を述べているのです。
ちなみに、如来が説くニルヴァーナを初めとする覚りの境地にまつわる教説は、この三車に当たると言えるでしょう。
なお、苦諦の重要性はこれにとどまらず、覚り(=解脱)の瞬間における重要で決定的な表象の創出にも関わっています。
すなわち、仏道修行者が大事の局面に臨んで正しい想いを生じ、——これは通常あり得べき観(=止観)を指していますが——衆生を完成させるならば(維摩経の正法)、まさしくそれによって智慧を生じ、次いで作仏することになるからです。
別の言い方をすれば、「苦諦の理解は発菩提心の原資となる」と言うことになるでしょう。
また、作仏によって生じる解脱知見も、苦諦の解決を見たことを自分自身完全に理解納得したことがそれを裏付けることになるのです。
ここにおいて一切の苦悩は終滅し、仏道修行は完成を見るのです。
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