書店や図書館には、経典や論典だけではなく一般人向けの仏教解説書が並んでいます。
仏道修行者が、これらの解説書を読むことに意義はあるのでしょうか?
結論を先に言えば、大いに意義が認められるということになるでしょう。
もちろん、それらは玉石混交であり、恐らくすべてが未だ覚っていない衆生の手によって著されたものであり、場合によっては大きく誤った解釈が展開されていたりすることもあるようです。
それでも、こころある人は、その中から覚りの道の糧となる書を選び取り、糧と為して、ニルヴァーナへと近づくことになるでしょう。
と言うのは、正しく覚りを求める人には明知があり、知るべきことに興味を抱き、知るべきではないことには興味を示すことなく、本人にとって必要な知識や概念を身につけることに役立つからです。
それどころか、ある人はそれらだけによって——つまり生き身の如来や大徳との関わりなくして——自分自身によって仏教につての正しい理解と功徳を生じ、ついには覚り(=解脱)に至ることでしょう。
このため、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができるのです。
1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 6、学生ドータカの質問 中村元訳 岩波文庫)
962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は、どのような学修を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか? ──譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」
963 師(ブッダ)は答えた、「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。
(中略)
975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
──と師(ブッダ)はいわれた。(ブッダのことば・スッタニパータ 第1 蛇の章 16、サーリプッタ 中村元訳 岩波文庫)
すなわち、仏道修行者が「最高の真理を知ること」や「適当な時に理法を正しく考察すること」が智慧を生じる契機となるものであり、一般的な仏教解説書を読むことはそれに役立つものであると言えるということです。
実際、覚りの決定的な機縁に臨んだとき、聡明な人は経典とは限らない書物に書かれた言葉をふと思い出すことでしょう。
それが正しく説かれた理法の言葉と相まって、ついに人を覚り(=解脱)に至らしめることになるのです。
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