不滅のニルヴァーナへと到達することを目指して修行に勤しむ仏道修行者は、気をつけているべきことが説かれます。
なぜならば、そうであってこそニルヴァーナへと向かう一なる道の具体的なところを見出すことができ、道の糧となる功徳を積むこともでき、そして決定的な覚りの機縁となる「法の句」を聞き及ぶ——それがそうだと心底に気づき得る——ことができるからです。
逆に言えば、気をつけていないとこれらを成し遂げることはとてもできないでしょう。
これについて、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。
1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」
1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。 (気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 学生アジタの質問 中村元訳 岩波文庫)
要するに、気をつけていることによって道を逸れたり踏み外すことがなくなり、気をつけていればこそついに智慧を生じて作仏する——煩悩の流れを完全に塞ぐことを得る——ということです。
ところで、仏道修行者が気をつけているというのは具体的にはどのようなことなのでしょうか。
それは、覚り機縁に遭遇したときにそれと気づくことができるように気をつけるべきであるということです。
この機微は、例えば寝ていても地震を察知して危険を回避するようなことに似ています。
ここで、肉体的にも精神的にも疲れ切っていると地震を察知することができないかも知れません。
あるいは、飲酒や薬物の摂取で酩酊状態にあればたとえ地震そのものは察知できても適切な対応を取ることは難しいでしょう。
仏道修行者が、覚りの機縁に臨んで適切な対応を取ることも同様であり、疲れ切っていたり、仏道修行とは関係のないことがらに気を取られたりしていると、とくに重要な機縁である「法の句」を聞き逃してしまうかも知れません。
つまり、大事なことをしっかりと認知したり、覚知できるように、気をつけているべきであるということです。
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