流暢に言葉を喋っていても、真の意味で言葉を使いこなしているとは言えないことが少なくありません。

 

何となれば、多くの人々(衆生)は言葉を表面的に使うだけであり、言葉が持つ本当の特性に気づくことがないからです。

 

その中にあって、この世の真実を知ろうと熱望している人が、世に飛び交う言葉の中に世にも不可思議で素晴らしい言葉である「法の句」を見出し、その出現の真相について深く考験し、その真実をあからめて智慧を生じ、ついに覚る(=解脱する)ことになるのです。

 

また、もろもろの如来が語る理法の言葉を見聞きして、その行為の真意を心にさとる人は、人(衆生)を究極のしあわせの境地たるニルヴァーナへと導き至らしめる法(ダルマ)の存在とその威力について微かに覚知することができるでしょう。

 

これに関連して、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。


・ ── そなたらのどの詩も、すべて、順次みごとにとなえられた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。信仰をもって(与えること)が、実にいろいろ と讃めたたえられた。しかし、(与えること)よりも「法の句」のほうがすぐれている。 昔の善き人々、それよりも昔の善き人々も、智慧をそなえて、ニルヴァーナにおもむいた と。(ブッダ神々との対話—サンユッタ・ニカーヤ1 中村元訳 岩波文庫)

・ ── そなたらは、すべて、順次みごとに詩をとなえた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。ただ、善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。 善き人々の正しい理法を知ったならば、すべての苦しみから脱れる と。(ブッダ神々との対話—サンユッタ・ニカーヤ1 中村元訳 岩波文庫)

また、別の原始仏典においても次のような理法を見ることができます。

325 長上を敬い、嫉むな。諸々の師に見えるのに適当な時を知り、法に関する話しを聞くのに正しい時機を知れ。みごとに説かれたことを謹んで聞け。

327 真理を楽しみ、真理を喜び、真理に安住し、真理の定めを識って、真理をそこなうことばを口にするな。みごとに説かれた真実にもとづいて暮らせ。

329 みごとに説かれたことばは、聞いてそれを理解すれば、精となる。聞き、かつ知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。しかしながら、人が性急であってふらついているならば、かれには知慧も学識も増大することがない。(ブッダのことば・スッタニパータ 第2 小なる章 9、いかなる戒めを 中村元訳 岩波文庫)

逆に言えば、このようなことがらを我がものとできる人こそが真に言葉を使いこなしている人であると言うこともできるでしょう。

 

この意味において、言葉は単なるコミュニケーションの道具ではないということです。

 

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