仏教は、信じるに値する教えです。

 

何となれば、仏教を信じて徳行に篤く精励する人は、次第次第に功徳を摘み、ついに覚り(=解脱し)、仏となって、究極のしあわせの境地たるニルヴァーナに住する人となるからです。

 

そして、ニルヴァーナに達した人は皆、ニルヴァーナに至ったことを楽しみ、誰一人として衆生に逆戻りしたいなどと思う人はいないと断言できるのです。

 

その理由は、仏教は一切世間の苦悩を脱れる道を説くものであり、覚り(=解脱)はそれを実現することに他ならないからです。

 

人は皆、しあわせを求めているものであり、苦悩が好きという人はいないでしょう。

 

それゆえに、仏教は信じるに値する教えであると言えるのです。

 

さて、覚った人(=ブッダ)は、信じるに値する人であると言えるでしょう。

 

何となれば、覚った人が説く理法の言葉に耳を傾け、この一なる道を歩む人は皆、栄え、しあわせの境地たるニルヴァーナへと近づくことになるからです。

 

逆に、覚った人を信じることができない人は破滅へと向かうことになります。

 

これについて、釈尊の原始仏典には次の理法を見ることができます。

 

92 (師は答えた)、「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第1 蛇の章 6、破滅 中村元訳 岩波文庫)

 

ところで、人はどうして何かを信じるということができるのでしょうか?

 

それは、それぞれの人の根底にあるものの如何によるということになるでしょう。

 

すなわち、心構え正しき人は信じるに値するものを信じることができ、邪な人はそれを信じることができないということです。

 

このため、仏教は賢者の道と呼ばれることになります。

 

これは、賢者だけがニルヴァーナに到達することができるという意味ではなく、そもそも賢者しか仏教を信じることはできないということなのです。

 

よって、仏教やブッダを信じることができた人は、その時点ですでにニルヴァーナに到達することが約束されていると言っても過言ではありません。

 

実際、それを達成した人がいることを、私(=SRKWブッダ)は知っているからです。

 

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