『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 前編 始まりの物語 後編 永遠の物語』
総監督 : 新房昭之

アニメ放映していた当時も見ていましたがそれ振りに劇場版見ました。
見方も変わるものですね。

虚淵玄の脚本と蒼樹うめのキャラクター。一見ミスマッチに見えるけど、少女を描くという点において共通するんだな、並べて置くことに違和感を覚えることがなかったのもそういうことだと思いました。

内容を知ってたこともあって、始めのシーンでまどかが「行ってきます!」と言って家を出た所で既に号泣。いってきますって・・・

今回気づいたことも多かったです。

魔法少女。魂が抜かれた空っぽの身体。でも感情は存在する。ここでアニメでありながら身体性を平面に感じる。すごい。
さやかに関してはさらにすごい。痛みすらも感じないほど、身体と感情が切り離された状態で流れる涙。なんだそれは。

これだけ身体性を提示させられた後に待っているのは反復です。
繰り返される1ヶ月。学校の廊下を歩くまどかとほむらがもう。二人の関係性は変化するけど動きは反復される。ここでのドキュメントな体験から視聴者側が勝手にドラマを作りだす。

そして画面の流れをぶつ切りする編集。アニメという自由自在な媒体であえて編集をぶっちゃけるこの姿勢。しかしそれにも二種類あった。画面の流れをぶつ切りしたときの画面が真っ暗になる瞬間。そこで音も切れるのか、それとも音は継続するのか。これによってもたらす意味が異なるように感じた。ただぶっちゃけるだけでなく、それを演出にしてしまう。すごい。

そして死を描くということ。すごいこれに関しては言葉にできないけど、死に直面した。

りんご。矢。

まどかの武器が、ラストのほむらの武器が、矢であることは確信犯。
エヴァ以降それに関しては最高傑作だと思います。

そして「少女」ということ。あーよくもまー魔法少女なんて言えたもんだなー。そんな言葉ってないよ・・・
これだけ苦しくなる映画は久々でした。少女って・・・号泣です。
でもそこで出てくるまどかの存在。
希望を願うんじゃなくて、希望になる。
「私、魔法少女になる」 うわー。

ほむらが繰り返してきた絶望がまどかというそれ以上の希望を産んだ。

まどかは概念となったけど、すごい、こんな人になりたいって思えた。
まどかに共感できたとかそういう訳ではなくて、

希望が絶望を、絶望が希望を産むことを、希望と思える。

今、すごく前向きです。