今日の礼拝の説教は、「イエス様はだれなのか?」と言う題で、最近このテーマが続いている。聖書は、出エジプト記17:1‐7であった。ニコニコ

 

 モーセの出エジプトの時、イスラエル民族が「荒野で水が無い。私たちを渇きでここで死なすのか。」(出エ17:3 参照)と、文句を言った時、モーセが主の命により、メリバの岩を打って水を出させて、民に飲ませた。汗うさぎ

 それは、イエス様の十字架をとおし与えられた命の水を象徴していた。民が荒野で水が無くて喉が渇いた時、主がモーセを通して、自分を犠牲にして命の水を与えたと言う新約の話しに繋がった時、感銘を受けたが、その頃、眠気を催して集中出来なかった。十字架  

 少し祈りましょうと言われて、全員が声をあげて祈り始めたが、途中からM.N.さんの大きな泣き声に、圧倒された。えーん  

 説教のあらすじは、単純な内容であったが、繰り返される「イエス様の命の水」と言う言葉と、牧師先生の心の底から絞り出される様な祈りに心を打たれた。凝視  

 

 今日の午後、お昼を食べた後、M.N.さんやKuさんが、用事で早めに教会を出て、他のメンバーと牧師先生も、今日入院したKazさんの御主人のお見舞いに行く事になり、残りは私とTさんとYさんのみとなり、いつもやっている分かち合いはやらずに、私も帰った。ダッシュ

 

 帰りながら、牧師先生から、「分かち合いは?」と聞かれたのに、自己判断でやらずに帰ってしまったことを悔い改めた。ショボーン

 

 私たちは弱い存在であり、荒野で水のない状況に遭遇すれば、誰でもイスラエル民族と同じ行動を取る者であり、だからこそイエス様の「いのちの水」が必要であることを思い知らされたが、荒野でもない、教会での出来事でさえ、自分勝手な道に走る自分にちょっとしたショックを覚えた‼びっくり

 

 さらには、11月は3人の信徒さん(M.N.さん、Yさんと孫のMちゃん)の誕生日があり、その誕生会を今日か来週の礼拝後にやる事になっていたが、Mちゃんの英検の2次試験(本日)と学校行事(来週)の関係で、直前まで決まっておらず、それが来週になったのをMちゃんが知らず、今日試験が終わって、3時半頃に教会に来たらしい。ダッシュ

 

 T さんとYさんが残ってたので、まだ良かったが、もし私も残っておれば、Mちゃんを連れて喫茶店にでも行って慰労できたのにと、それも悔やまれた。ここ2カ月くらい教会から遠ざかっていたMちゃんが、せっかく教会に来てくれただけに、残念であったし、私の自分勝手な判断が、こういう所まで影響を及ぼすことを思い知らされた。気づき