sriramanaのブログ

sriramanaのブログ

ラマナ・マハルシを通じて自己を悟る道に目覚めました。

その時々の感想など綴ってまいります。

Amebaでブログを始めよう!
阿部さんのブログ記事『たったひとつの目的』についての感想

http://abetoshiro.ti-da.net/e3097052.html


なんとなく阿部さんのブログにコメントする気になれなくて、こちらでコメントすることにしました。

他の人にいろいろ言われたからってわけでもないんだけどね。

なんかね、阿部さんも僕も変わらないんだなあ、、、って思ったからかな?

阿部さんに、ああだこうだと言う必要もないような気がしてね。




以下、僕の感想です。




阿部さんは、阿部さんの道を歩んでいる。

そう感じた。

それでいいんだよ、きっと。

彼の境地が不十分でもね、

それでいいんだよ、きっと。

彼は彼の道を歩んでいるんだ。

僕と同じように。

このブログを読んで、そう感じました。

僕の瞑想の師匠も、同じだね。




僕はね、阿部さんや師匠に、

問いたくなるんだ。

『本当にそうなの?』

『本当にそれは純粋なの?』

『本当にそれは混じりっ気なしなの?』

って。

まだ満足しちゃいけないんじゃないの?って。

でもそれって、本当じゃないのかもね。

自分が満足するとかしないとかの次元じゃない

のかもしれないね。




でもやっぱりこだわっちゃう。

阿部さんの『全体意識』『空』、師匠の『暗闇』『空空空』

それはまだ終わりではないんじゃないかって。

ラマナ・マハルシやね、死に際の人を見てると、

そんなことを思うんだよ。

人生をひとかけらも残さない人って、本当に

純粋無垢だなあ、ってね。

これは、阿部さんや師匠がどうこうではなくて、

自分の中のこだわりなんだよなあ、本当は。

僕はこの道を歩みたがっているんだ。
阿部さん、みなさん、お騒がせしました。僕のとんだ勘違いでご迷惑をおかけしました。

今回の件は、しかし僕の大きな進路に決定的な影響を与えました。

というのも、この前、禅の修行僧として生きることを心の中で決意したんです。要は出家です。後戻りできない道です。

で、修行の道に進む前に、世俗的な欲望をかなえてしまおう、と思いました。

たくさんの女を落として、性欲を満たしてしまえ!という欲望です(笑)それも、催眠術とか心理的に女を落とすとかの、かなりあくどいやり方です。

(余談ですが、女性はこういう男のやり口を知らないと、半分以上の確率でだまされるので気をつけましょう。プロ的な男は、想像を絶する力がありますから。。。)

やるだけやって、「もう十分!」と潔く捨てて、出家しようと思ったわけです。

自分の中でくすぶっている欲望は、吐きだしてスッキリしてしまえ!というわけです。

で、その決心をした途端、阿部さんへの決別コメントがやたらと気になりだして落ち着かなくなりました。

汗は出るわ、動揺するわ、手がしびれるわで。。。

そんなこんなでこのブログに戻り、色々と思いが巡って巡って巡りました。

その結果、性的欲望をかなえる道への思いは冷めて、決心はどこへやら(笑)

そして同時に、禅修行への決意も消えてしまいました。

正直言うと、僕にとって禅修行は妥協なんです。現実的な選択なんです。

秘めたる願望は叶えられそうにないので、二番煎じで禅にしようと。

禅ならば、懸命にやれば、ある程度までは悟れると。

でも、僕にとって禅の道は、何というのか、僕の内面の感覚に合わないんです。

禅は、はっきり言って外面的だと思う。

こういうと、阿部さんやみなさんは反論するかもしれないけど。僕の師匠からもやんわり反論されました。

でもね、僕の求めているものは、禅よりも内面的なんよ。僕の内面には、そういう直観があるんです。禅がどうかに関わりなく、最初から答えがある感じ。

それは、原始キリスト教の感覚にとても近い。そして、ラマナ・マハルシの境地にはキリスト教以上の圧倒的な内的感覚を感じます。ラマナの境地はあまりに激しすぎてついていけないけど(笑)

一言でいうとね、禅は彼岸に渡らない。これは単なるあの世のことではなくて、どう言えばいいのか、、、、要は、完全には死なないんです。身体レベルの本能的な生命が死なないんです。本能的なマインドが。

ラマナ・マハルシをはじめとするインドの霊的伝統はね、完全に彼岸へ行く。完全に死ぬ。これはね、圧倒的な溢れる光です。生命の光じゃなくて、純粋に霊の光です。魂の光です。

禅はね、身体を残すんよ。生命を残すんよ。あるいは、川の音とか鳥の声とか山とか石ころとか自然とかを残すんよ。それはね、中国や日本の伝統的な霊性なんだと思う。

でもね、インドは何も残さない。もう、内面しかない。内面しかないから、本当に何もない。完全に死ぬ。だから、圧倒的な霊的な光なんです。

こんな境地はね、僕の知るかぎり禅僧には皆無だし、阿部さんや僕の師匠やyu-ko kさんにもない。ないというか、そこまで完全に死んでいない。

この完全に死ぬ境地は、肉体的な死として必ず反映する。心・マインドが死ねば、肉体も死ぬ。だから、インドで最終的なサマーディに達した者は、誰かが食べさせないと死んじゃう。食欲が完全に死んでいる。

それはね、外から見れば恐怖です。ただ座ってガリガリにやせ細って、髪も爪も伸び放題。地獄にしか見えないはずです。目撃して、そう言ってる白人が実際にいる。

でもね、彼自身の内面はね、圧倒的な至福なんよ。彼岸に渡った者にしか分からない霊的なあふれる至福なんよ。

これがね、智恵なんだと思う。世界のすべての根底を悟る智恵。源を知る智恵。

この智恵に達するにはね、すべてを捨てなきゃならない。本当にすべてを。どんな執着も、これを邪魔する。禅はね、だからこの智恵にまで達しない。一歩手前で終わっちゃうんです。生命が残るから。本能的なマインドが残るから。人生が残るから。僕の師匠や阿部さんや禅僧のように。

禅とインドは、別物じゃない。でも、まったく同じでもない。インドは、徹底しているんです。完全に彼岸へ行くんです。

隠遁的なタイプのキリスト教は、インドほど完全には死なない。でも、禅と違って内面へと内面へと進む感覚がある。そこがインドに似ているんです。

僕の内面はね、そういう極度に内面的な世界に強烈に惹かれるんです。僕の中に、すでにそういう世界がある感じ。だから、どうしようもなく共鳴する。

そういうことがあるから、誰が何と言おうとも、阿部さんの境地に満足できないんです。それで、色々と文句を言いたくなっちゃう(笑)

まあ、そうやってすったもんだして、少しずつ僕の内面の求めているものがハッキリしてきている感じです。

みなさんにはご迷惑をおかけしておりますが、今後ともどうぞよろしく!
ウソが見抜かれている。

感じつくすとか、味わいつくすとか、それは僕の頭の中での想像だ。

苦しいときはあったけど、ワラをもすがりたくなるほどだったのか?

阿部さんのブログでの、以前の僕のコメントページを開いたとき、正視せずに逃げようとする感情を感じた。

自分で、ウソが分かっているのだろう。頭の中で作った、ということが。

しかし、頭の中で作ることをやめるには、どうすればいいのだろう?

正直になるには、どうすればいいのだろう?

やはり、ひとつひとつ、自分の中のウソを暴く以外にないのかもしれない。

正視したくないウソツキの自分自身に、向き合わなければならないのだろう。。。

ウソをついて、自己防衛する自分を。人に笑われないように、人に非難されないように、という自分を。

人に、分かったふうな口をきく自分を。

「僕は知ってるよ」なんて、得意げにしゃべっている薄っぺらな自分を。

人に自慢して喜んでいる自分を。

僕には、人に語れずに隠していることが、いっぱいあるんだ。。。

隠すことが必ずしも悪いわけではないけど、人に言えずに隠し通す感情って、やっぱり自己防衛なんだよね、

それが、自分を縛って苦しめている気がするよ。。。

コミュニケーションの大きな障害にもなっているね。人付き合いベタの原因のひとつだろうな。

心を開けないわけよ。人との間に距離があるわけよ。

青野敬宗老師のお言葉

曹洞宗の僧侶たちの前でこう語った。

 「皆さん方にお願いがございます。というのは難しい話ではないんですけれど、どうか、出家の本分とは何かということ、出家の本分は、本当に泣いて来た人、困っている人、そういう人を本当に救える人になってもらいたい。それがためには無我に、いつでも自分を捨てたところにおらないと、欲が出たら、なかなかなりません。」


青野老師の上記の言葉に対する、宮崎慈空老師のお言葉。

 「たったこれだけの平易な日常語であるけれども、私はこれだけの中に師の人生における悲しみの深さと、命懸けで得た真正の解脱の歓びと、それ故に一切衆生を救わねば止まないという願心と、それに沿った師自らの名利を絶した平生工夫の有り様を読み取ることができると思う。」


お二人のお話は、僕の胸に深くひびく。

二人の師を前に、僕はいったい何を語れるのだろうか?

僕に、語れることがあるのだろうか?
『日々是好日~「お茶」が教えてくれた15のしあわせ~』という茶道の本を、アマゾンで立ち読みしました。

とても感動したので、長くなりますが、まえがきを抜粋します。



・・・二十歳のとき、私は「お茶」をただの行儀作法としか思っていなかった。

鋳型にはめられるようで、いい気持ちがしなかった。

それに、やってもやっても、何をしているのかわからない。

一つのことがなかなか覚えられないのに、その日その時の気候や天気に合わせて、道具の組み合わせや手順が変化する。

季節が変われば、部屋全体の大胆な模様替えが起こる。

そういう茶室のサイクルを何年も何年も体で繰り返した。

すると、ある日突然、雨が生ぬるく匂い始めた。

「あ、夕立が来る」と、思った。

庭木を叩く雨粒が、今までとはちがう音に聞こえた。

その直後、あたりにムウッと土の匂いがたちこめた。

それまでは、雨は「空から落ちてくる水」でしかなく、匂いなどなかった。

土の匂いもしなかった。

私は、ガラス瓶の中から外を眺めているようなものだった。

そのガラスの覆いがとれて、季節が「匂い」や「音」という五感にうったえ始めた。

自分は、生まれた水辺の匂いをかぎ分ける一匹のカエルのような季節の生きものなのだということを思い出した。



前は、季節には、「暑い季節」と「寒い季節」の二種類しかなかった。

それがどんどん細かくなっていった。

春には最初にぼけが咲き、梅、桃、それから桜が咲いた。

葉桜になった頃、藤の房が香り、満開のつつじが終わると、空気がむっとし始め、梅雨のはしりの雨が降る。

梅の実がふくらんで、水辺で菖蒲が咲き、あじさいが咲いて、くちなしが甘く匂う。

あじさいが終わると、梅雨も上がって、「さくらんぼ」や「桃の実」が出回る。

季節は折り重なるようにやってきて、空白というものがなかった。



「春夏秋冬」の四季は、古い暦では、二十四に分かれている。

けれど、私にとってみれば実際は、お茶に通う毎週毎回がちがう季節だった。



どしゃぶりの日だった。

雨の音にひたすら聴き入っていると、突然、部屋が消えたような気がした。

私はどしゃぶりの中にいた。

雨を聴くうちに、やがて私が雨そのものになって、先生の家の庭木に降っていた。

「生きてる」って、こういうことだったのか!

ザワザワッと鳥肌が立った。

(抜粋ここまで)




僕は、まさにガラス瓶の中から外を眺めているように、生きていた。

自分の身の回りにある、豊かさにまったく気づかなかった。

自分の中の考え事や日々の忙しさに埋もれ、この世界から心を閉ざし、自分の殻のなかで生きていた。

この世界に心を開いていなかった。

この世界は、無限と言えるほど豊かなものを僕に与えてくれていたのに、僕は何も見ていなかったし、何も感じていなかった。

僕もやはり、「暑い季節」と「寒い季節」の二種類しか感じていなかった。




つばめは、季節を敏感に感じ取り、ぴったりの時期に巣をつくり、子を生み、育て、子が巣立ち、去っていく。

カエルは、やはりぴったりの季節に卵を産み、おたまじゃくしになり、カエルになって鳴き声をあげる。

彼らは何も考えていない。

彼らは何の知識も持っていない。

彼らは、この世界に心を開いているのだ。

五感をフルに開いて、世界の中に自分を開放している。

彼らは感じたままに行動している。

自然の生きものはみな、この世界の豊かさを全身で感じ、味わい、生きているのだ。

だから、適切な時期に適切な行動をとることができるのだ。




それにひきかえ、僕は狭っ苦しい「頭の中」に閉じこもり、「自分」の中に閉じこもり、世界から心を閉ざして生きている。

僕は、豊かさを失った生きものだ。

僕は、理科実験室にあるガラス製のフラスコの中の、標本のようなものだ。

世界に対してまったく感受性を失っているのだ。

世界は、こんなにも豊かなのに。

幼少の頃には、僕もきっと、豊かさを感じて生きていたはずなのに。

原始の人間たちは、きっとみな、この世界の神秘的なほどの豊かさを、感じて生きていたはずなのに。




もっと、世界を味わおう。

もっと、世界に心を開こう。

もっと、自分を開こう。

豊かさは、いつも目の前にあるんだ。

人間はどんな日だって楽しむことができる。

浮世のごたごた、考え事や思いの海から、自分を解放するのだ。

この世界へと、自分を開放するのだ。




音に耳を澄ませよう。

景色を静かに味わおう。

木々の香りを感じてみよう。

肌に触れる風を感じよう。

さあ、世界は僕に、いったい何をもたらしてくれるだろうか?