昨日は壮行会のご出席ありがとうございました!

壮行会の記事はまたゆっくりアップさせてくださいね☆


昨日の壮行会の時もいらしていただいていた

朝日新聞静岡総局記者 杉山圭子さんが書いてくださった記事です☆

http://www.shizuasa.net/columnList/198.html

心動かされたパラリンピアン

(2012年7月)


近づく夢舞台

ロンドン五輪(7月27日~8月12日)の開幕が近づいてきました。五輪後に同じロンドンで開かれるパラリンピック(8月29日~9月9日)とともに、日本選手団の顔ぶれも固まり、県勢は五輪に14人、パラリンピックに12人が挑みます。

どんな選手にひかれ、期待するかは人によって様々でしょう。私の場合、取材記者として心動かされ、多くの人に伝えたいと思うのは、仮に自分がその人と同じ能力を持ち、同じ境遇に置かれたとしても、とてもここまではできまい、と感じる選手や関係者と出会ったとき。

昨年来、ロンドンを目指す様々な選手や代表選考会を取材してきた中でとりわけ感銘を受けたのは、五輪・パラリンピックを合わせて県勢最年長の代表選手の話でした。パラリンピックの馬術競技に初出場する静岡市在住の浅川信正さん(56)。

心動かされたパラリンピアン1

浅川信正さん

県版記事でも一度お伝えしましたが、行数に制約のある紙面には収まりきらなかった話もあり、取材時のエピソードとともに改めてご紹介します。

人生の転機

浅川さんは胸から下をまったく動かすことができません。足腰も腹部も、車いすに支えられた状態。とてもそうは見えませんが、と驚く周囲に、本人は笑顔で返します。「7年前までは普通の人でしたから。今も普通ですけどね(笑)」。

普通の人どころか、20~30代のころは障害馬術で国内ランキング10位内を維持。東日本大会で優勝するなど、長くトップクラスで活躍を続けた選手でした。

2005年8月14日。人生が一転したその日は、50歳の誕生日を迎えた6日後のこと。オートバイで山道を走っていて、前から来た乗用車に頭からぶつかり、地面に投げ出されてしまいます。自分が当事者なら、今さら思い出したくもない出来事でしょう。

ですが、浅川さんは「そのとき」のことを、時にユーモアを交えながら振り返ってくださいます。

「昔は『人生50年』って言われましたよね。50歳になって、『よくここまで生きてきたなあ。次はなにをやろうか』って、ずっと思ってて。道路にバタって倒れた瞬間にね、『ああ、そんなこと考える必要なかったんだ。人生って、考えなくても向こうからちゃんと来るんだな』って。そう思ったのが、すごい印象にありますね」

神様からの贈り物

胸椎の粉砕骨折。体の大部分が動かなくなっていることは、起き上がろうとした瞬間にわかったそうです。当時の浅川さんの年齢に近づいている私は、さらに尋ねました。「でも、今は50代でもまだ先はある。なぜあんな事故を、と悔やんだこともあったのでは?」

すると、浅川さんはまたも微笑みながらおっしゃいます。「こういうのは『人生の転機』なんです。入院してた時、同じ病院に若い人もいてね。まだ恋も知らないんじゃないかなあ、なんて。俺なんか50年、いいも悪いも、いろんなことを経験させてもらった。だから、もう悔いはないですね」。

パラリンピック出場は「神様からの贈り物」だとおっしゃいます。若い時分は、トップクラスの選手といえども今ほど自由に海外遠征はできず、「オリンピックや世界選手権に出るなんて夢の夢でした。それが、障害を負ったおかげで、『パラ』はつくけど、オリンピックの舞台に立てる。一つのことを続けていると、いいこともあるものです」

家族の支え

県馬術連盟事務局長として出席されていた会合で初めてお会いしてから数日後、家族で運営する静岡乗馬クラブを訪ねました。

静岡市の中心市街地から車で10数分。クラブでは、浅川さんが高校2年生のとき乗馬を通じて知り合って以来、ともに歩んできた妻やゑ美さん(58)が、次男の晴央さん(29)らとともに、早朝から馬の世話や乗馬教室の指導をされています。そこで出会ったご家族の姿にもまた、感心しました。

心動かされたパラリンピアン2

2003年に立ち上げた静岡乗馬クラブで、
妻やゑ美さん(左端)、次男晴央(はるちか)さん(後ろ)ら家族と


やゑ美さんは事故直後こそ心労などで10キロも体重が落ちたそうですが、3年後、パラリンピックの馬術競技の存在を知って競技再開を決意した夫を、止めることはありませんでした。

「また馬に乗るとは思いもしませんでしたが、昔から何か目標を見つけると、いくら周囲に無理だと言われても、どうしたらできるか、だけを考えて、あれこれ工夫して挑むのが好きな人なんです。けがをして、それがさらに増した感じですね」。

浅川さんによれば、パラリンピックを目指す選手の中にも、補助具を使っても立つことのできない選手はほとんどおらず、実際、前回北京大会の視察時には関係者から「その体では危ない」とあきらめるように促されたそうです。

にもかかわらず、自分の体に合う鞍を作ってくれるメーカーを探しに海外を回り、ロープを伝って馬に乗る練習を重ね…と挑戦を続けることができたのは、家族の理解があってこそ、でしょう。

心動かされたパラリンピアン3

家族で馬たちの世話をする日々。
「物心ついたときから馬が大好き。一度乗ったら死んでもいいと思っていた」(浅川さん)という

強さの理由

自身、幼少時から馬に乗ってきたやゑ美さんは、現在の夫に健常者時代とはまた違った強みも感じるといいます。「普通の人より肩幅ががっちりし、手が長くて腕力もある。だから、できるんだと思います。足腰の動きで馬を邪魔することがないのも大きな利点ですね」

相づちを打ちながら、くすっと笑うのは晴央さん。「でも、肩や腕を人の何倍も使うから、馬に乗るたびにめちゃくちゃ筋肉痛だって。いつも大変そうですけど」

父の事故後、3人きょうだいの末っ子の晴央さんの人生も大きく変わりました。当時、夏休みで留学先の米国から帰省中だった晴央さんは、非常事態を受け、大学へは戻らず乗馬クラブの運営を手伝うことに。

久しく乗っていなかった馬にいきなり振り落とされ、父と同じ病院で1カ月も入院生活を送りましたが、それでも恐怖心をひきずらず、退院後すぐに馬の世話を再開したとのこと。タフさは、両親譲りなのでしょう。

すごい人、とは

記者として25年、様々な人と出会って学んだことの一つは、本当に偉大な人は自慢話をしない、本当に苦労したり、本当に並外れた努力をした人は「大変だった」「頑張った」とは言わない、ということです。究極の苦しみ、悲しみや、常識では考えられないレベルの鍛錬を経ると、人はそれらをありふれた言葉で表現しようとは思わなくなるのでしょう。

浅川さんの話を聞き、ご家族の思いもうかがって、改めてそんなことを考えました。

浅川さんがパラリンピックでともに戦う愛馬はオランダにいて、欧州での転戦や調整を経て本番に挑みます。そんな浅川さんの挑戦を応援しつつ、「命だけは大事にしてほしい」と家族は願います。痛みを感じない下半身は小さな傷でも大病につながりかねず、実際、昨年の今ごろまでは骨髄炎で入退院を繰り返し、命も危ないところでした。

心動かされたパラリンピアン4

骨髄炎による入院から昨夏復帰し、秋以降の大会でポイントを重ねてロンドン行きを決めた。
写真は4月、ベルギーの大会にて=浅川信正さん提供


本番で願うこと、を尋ねると「静岡駅を『行ってきます』と行って出て、同じように元気な姿で『ただいま』と帰ってきてくれれば、私はもうそれで十分です」とやゑ美さん。

短い時間ながら、ご家族の魅力に触れた一人としても、無事の健闘を祈るばかりです。
(朝日新聞静岡総局記者 杉山圭子)