第1話 流氷の上の来訪者

 

目次
1章 網走の朝
2章 女将のすすめ
3章 高台の悲鳴
4章 流氷の上の男
5章 田所警部、登場

 

 

1章 網走の朝

 

二月の網走は、寒いというより痛い。
私立探偵の赤城圭太は、旅館「流氷荘」の玄関を出たとたん、

吸い込んだ息で鼻の奥がキンと凍るのを感じた。


赤城圭太 「なんだこれは。空気が針みたいだぞ」


倉石麻衣 「赤城さん、それ、さっきも言いましたよ。三回目です」


後ろから出てきたのは、マフラーをぐるぐる巻きにした倉石麻衣だった。

二十一歳。犯罪心理学を学ぶ女子大生で、昨日、

列車の中で赤城と隣り合わせになったのが縁の始まりだった。

しかも宿まで同じだったのだから、偶然というのは時々、ひどく仕事熱心だ。


赤城圭太 「いや、本当に寒いんだ。私立探偵ってのは足で稼ぐ商売なんだが、足が凍っては稼げない」


倉石麻衣 「そもそも、稼げてるんですか?」


赤城圭太 「痛いところを突くね。心の傷は凍らせない主義なんだが」


麻衣はくすくす笑った。


倉石麻衣 「でも、せっかく流氷を見に来たんですから。昨日、

女将さんが言ってましたよね。今年は接岸が早いって」


赤城圭太 「ああ。じゃあ、散歩がてら見に行くか。朝飯の前の運動だ」


倉石麻衣 「運動ですか。赤城さん、昨日の夜、ホタテを十二個食べてましたけど」


赤城圭太 「十二個は夕飯だ。朝飯とは別腹だよ」


二人がそんな会話をしていると、玄関の奥から着物姿の女性が小走りに出てきた。

流氷荘の女将、白石タエである。五十八歳。小柄で、笑うと目尻に深いしわが寄る、上品な人だった。

 

 

2章 女将のすすめ

 

白石タエ 「あら、お二人ともお出かけですか。寒いですから、これをお持ちになって」


女将は使い捨てカイロを二人に二つずつ握らせた。


赤城圭太 「これは助かります。女将さん、流氷を見るなら、どこがいいでしょう」


白石タエ 「それでしたら、この裏の坂道を上がった高台が一番ですよ。海がぜんぶ見渡せます」


倉石麻衣 「何時ごろがいいですか?」


白石タエ 「そうですねえ。午後三時ごろがいいかしら。風向きで、

ちょうど岸の近くまで氷が寄ってきますから。朝は沖のほうにいますけど、

午後になると、それはもう見事ですよ」

 

赤城圭太 「午後三時、ですか。では、昼まで町をぶらついて、それから行きましょうか」


倉石麻衣 「そうしましょう。お昼はカニですね!」


赤城圭太 「朝飯もまだなのに昼飯の話か。君は将来大物になるよ」


白石タエ 「ふふ。お二人は親子……では、なさそうですし」


赤城圭太 「おい、麻衣くん。今、僕は『親子』と言われかけたぞ。四十歳の心の傷は深いんだ」


倉石麻衣 「女将さんは『なさそうですし』って言ってくれましたよ。ぎりぎりセーフです」


こんな調子で、二人はコンビらしくなりはじめていた。まだ事件の影も形もない、のどかな昼前のことである。

 

 

3章 高台の悲鳴

 

午後二時半。昼食のカニで膨れたおなかをさすりながら、

赤城と麻衣は、旅館の裏の坂道を上っていった。


倉石麻衣 「赤城さん、ちょっと食べすぎですよ。顔がカニ色です」


赤城圭太 「それは寒さで赤いだけだ。ああ、苦しい。坂道が山道に見える」


やがて視界がひらけた。
海が、白かった。
見渡す限り、海面が白い氷で埋めつくされている。ごつごつした氷の板が、

ゆっくり、ゆっくりと押し合っている。きしむような音が、風に混じって聞こえた。


倉石麻衣 「すごい……」


赤城圭太 「ああ。さすがに、これは来てよかったと思うな」


二人はしばらく黙って、その光景に見とれていた。
そのとき、崖の端のほうから、男の悲鳴が聞こえた。


森田学 「うわあああっ!」


赤城圭太 「何だ!」


倉石麻衣 「あっちです!」


駆けつけると、カメラを首からさげた三十代の男が、柵につかまって、がたがた震えていた。

分厚いダウンジャケットを着ているのに、顔は真っ青だった。


赤城圭太 「どうしました。落ち着いて」


森田学 「し、し、下……下に、人が……」


赤城は柵から身を乗り出して、崖の下を見た。

 

 

4章 流氷の上の男

 

崖の高さは二十メートルほど。その真下は海で、岸に押し寄せた流氷が、

ぶ厚い白い床のように広がっている。その上に、人が倒れていた。
うつ伏せ。紺色のコートの背中が、白い氷の上でやけに目立つ。両腕は体の下に入り、

まるで氷にしがみついているようにも見えた。


倉石麻衣 「赤城さん……あの人、動いてません」


赤城圭太 「ああ。麻衣くん、見ないほうがいい」


倉石麻衣 「大丈夫です。犯罪心理学を勉強してますから。……ええと、

少しだけ、大丈夫じゃないですけど」


麻衣は唇をかみながら、それでも目をそらさなかった。

赤城はそんな彼女を横目で見て、少しだけ感心した。


赤城圭太 「あなたは、最初に見つけた方ですね。お名前は?」


森田学 「も、森田学といいます。オホーツク流氷館で学芸員をしています。

今日は、午後の流氷の写真を撮ろうと思って来たんです。そうしたら、あんなものが……」


赤城圭太 「流氷館の方ですか。では、あの人に見覚えは?」


森田は震える手で目をこすり、もう一度下を見た。それから、ひゅっと息を吸い込んだ。


森田学 「あの、紺のコート……あの背中……ま、まさか、館長じゃ……」


倉石麻衣 「館長?」


森田学 「堀川館長です。うちの流氷館の……。で、でも、昨日の夜から、館長とは連絡が取れなくて……」


赤城圭太 「その話は警察にしてください。麻衣くん、一一〇番だ」


倉石麻衣 「はい!」


麻衣が携帯電話を取り出し、震える指で画面を押した。


倉石麻衣 「あっ、赤城さん、圏外です!」


赤城圭太 「何だって。ええい、坂を下りて旅館の電話を借りよう。森田さん、ここを動かないで」


森田学 「は、はい。動けませんよ、足が……」


赤城は走りだした。カニで膨れたおなかが、猛烈に抗議していた。

 

 

5章 田所警部、登場

 

三十分後。高台は、制服の警官であふれていた。
赤城と麻衣は、柵のそばで事情を聞かれていた。目の前に立つのは、五十すぎの、

顔の四角い男だった。眉間に深いしわを刻み、手帳を持つ指までごつごつしている。


田所警部 「網走署の田所です。通報は、あなた方ですな」


赤城圭太 「ええ。私立探偵の赤城圭太と申します。こちらは連れの」


倉石麻衣 「倉石麻衣です。学生です」


田所警部 「私立探偵?」


田所警部の眉が、ぴくりと動いた。


田所警部 「いいですか、赤城さん。私は探偵という職業が好きではありません。

素人が現場をうろうろして、事件をややこしくする」


赤城圭太 「ごもっともです。僕は、うろうろしないタイプの探偵でして」


倉石麻衣 「さっき、崖の下をのぞこうとして、柵から落ちかけてましたけど」


赤城圭太 「麻衣くん、それは黙っておく約束だったろう」


田所警部 「……」


そこへ、若い警部補が駆け寄ってきた。細身で背が高く、少し気の弱そうな顔をしている。


平野警部補 「警部。遺体の収容に、少し時間がかかりそうです。氷が薄いところがあって、

人が近づけません。ボートを出す準備をしています」


田所警部 「そうか。平野、ほかの者は?」


平野警部補 「村上巡査長が、第一発見者の森田さんから、くわしく聞いています」


柵の向こうでは、がっしりした体つきの巡査長が、手帳を片手に、

森田の話をうなずきながら聞いていた。
麻衣は、崖の下を見つめていた。それから、ふと赤城の袖を引いた。


倉石麻衣 「赤城さん」


赤城圭太 「何だい」


倉石麻衣 「あの遺体……足跡が、ないんです」


赤城圭太 「足跡?」


倉石麻衣 「氷の上は雪が薄く積もってるのに、遺体のまわりに、人が歩いた跡が、

ひとつもないんです。まるで、空から降ってきたみたいに」
赤城は、はっとして崖の下を見た。確かに、真っ白な雪の上には、遺体のほかに何の跡もない。


赤城圭太 「……崖から落ちたのなら、あの高さだ。体はもっと傷んでいるはずだ。

だが、あの遺体は、まるで寝ているみたいに、きれいだ」


田所警部が、じろりと二人を見た。


田所警部 「ほう。素人にしては、いいところに目をつけますな。だが、口は出さんでください」


赤城圭太 「はい。口は出しません。目と、耳と、足だけです」


田所警部 「それが一番ややこしいんです!」


北の海から、冷たい風が吹きつけた。流氷が、ぎしり、と鳴った。
これが、赤城圭太と倉石麻衣の、最初の事件の始まりだった。

 

第2話へつづく