目次
五 女将の証言
六 カップルの嘘
七 一枚の写真と二つの失言
八 断崖の対決
九 帰りの列車
五 女将の証言
波音荘の座敷には、重苦しい空気が流れていた。
上座に黒川警部、その脇に警部補の平と巡査長の村田。向かい合って、女将の志摩が正座している。
赤城と麻衣は「発見現場に居合わせた参考人」という名目で、部屋の隅にちょこんと座らされていた。
黒川警部「では女将さん、亡くなった方について、知っていることを話してください。」
女将「はい。お名前は堀井修一さん。四十四歳で、福井市内の自動車整備会社にお勤めだと、
宿帳に書いてありました。」
黒川警部「地元の人間が、なぜ旅館に?」
女将「私も不思議に思ったんです。お尋ねしたら、気分転換だとおっしゃって。
夕食も、ほとんど召し上がらずに、ずっとお部屋で電話ばかりしていらして。」
黒川警部「電話?」
女将「夜の十時ごろでした。廊下で話している声が聞こえてしまったんです。
『百万円くらい、お巡りさんなら痛くもないだろう』って。」
座敷が、しんと静まり返った。
黒川警部「……お巡りさん、と言ったんですか。」
女将「はい。はっきりと。」
平警部補「警部、それは脅迫でしょうか。まさか、警察官が脅されていたとでも?」
黒川警部「分からん。だが、聞き捨てならんな。」
倉石麻衣「あの、堀井さんは、いつ旅館を出たんですか?」
女将「朝の五時半です。まだ暗いのに、『ちょっと散歩に』とおっしゃって、鍵を置いて出て行かれました。」
倉石麻衣「そのとき、誰かと待ち合わせをしている様子は?」
女将「ええ、時計を何度も見て、そわそわしておられました。
『六時までには着かないと』と、独り言のように。」
赤城は腕を組んで、天井を見上げた。
赤城圭太「百万円と、お巡りさん、ですか。」
倉石麻衣「赤城さん、何か思いつきましたか?」
赤城圭太「いえ、猫探しなら、もう少し簡単なんですがね。猫は、脅迫状を書きませんから。」
黒川警部「赤城さん。ここは警察の領分です。口を挟まないように。」
赤城圭太「承知しています。ただ、独り言は、聞こえてしまうものでして。」
黒川警部「……聞こえないふりをする努力を、してください。」
六 カップルの嘘
別室では、第一発見者の新田健一と桜井チカが、黒川警部の質問を受けていた。
ただし、廊下の襖が少しだけ開いていて、そこから赤城と麻衣がのぞいていた。
黒川警部「ご住所を、もう一度お願いします。」
新田健一「あの、大阪の……いや、その、住所は、必要ですか?」
黒川警部「必要です。」
新田健一「……大阪市です。」
桜井チカ「健一さん、大阪って、私、初めて聞きました。」
黒川警部「は?」
倉石麻衣「赤城さん、見てください。新田さんの左手、薬指だけ日焼けが白く抜けてます。」
赤城圭太「指輪の跡ですな。外したばかりと見える。」
黒川警部「新田さん、ご結婚は?」
新田健一「…………しています。」
桜井チカ「えええええっ!」
チカの平手打ちが、ぱしん、と乾いた音を立てた。
新田健一「痛っ! ち、違うんだチカ、これには事情が!」
桜井チカ「独身って言ったじゃない! 出張で福井に来たって、だから私、会いに来たのに!」
新田健一「そのつもりだったんだ。でも、言い出せなくて。」
桜井チカ「言い出せなくて、で済むと思ってるの?」
黒川警部「……事件と関係のない話は、あとでやってください。」
村田巡査長「痛そうですなあ。」
黒川警部「村田、お前は黙っていろ。」
二人の話を整理すると、こうだった。新田は出張と偽って、チカと福井で落ち合っていた。
昨夜は別の旅館に泊まり、朝は六時半にその旅館で朝食をとった。仲居さんも、はっきりそれを覚えているという。
倉石麻衣「堀井さんが亡くなったのは、六時ごろ。お二人は、その時間、旅館にいたことになりますね。」
赤城圭太「つまり、悲鳴の主は犯人ではなく、ただの、浮気旅行の被害者だったわけだ。」
桜井チカ「被害者って言わないでください!」
新田健一「…………。」
赤城圭太「いや、失礼。二重の意味で、ですな。」
黒川警部「赤城さん、余計な口は慎むように、と。」
赤城圭太「慎みました。三十秒ほど。」
七 一枚の写真と二つの失言
その夜、赤城と麻衣は、旅館の縁側で作戦会議を開いていた。
倉石麻衣「赤城さん、実は、お見せしたいものがあるんです。」
麻衣は携帯電話を取り出した。画面には、岩場に倒れた堀井の右手と、
握りしめられた小さな紙が写っている。
赤城圭太「これは……いつ撮ったんです?」
倉石麻衣「警察に電話をかけながら、です。赤城さんが、現場をよく見ておいてくださいと言ったので。」
赤城圭太「麻衣さん、僕は目で見ておいてくれ、と言ったつもりでしたが。」
倉石麻衣「だから、目で見たものを、記録しておきました。」
赤城圭太「……優秀な助手だ。」
画面を拡大すると、乱れた文字が読み取れた。
倉石麻衣「六時、三号岩、百万円持参のこと。」
赤城圭太「脅迫状の控えですな。堀井さんは、自分で書いたメモを握っていた。」
そこへ、黒川警部が廊下を通りかかった。赤城は立ち上がり、携帯の画面を見せた。
黒川警部「……これは、どこで?」
赤城圭太「遺体の右手です。現場で麻衣さんが撮影しました。」
黒川警部「馬鹿な。現場検証の報告書に、こんな紙は載っていない。」
倉石麻衣「えっ。じゃあ、あの紙は、どこに行ったんでしょう?」
黒川警部は、近くにいた村田を呼びつけた。
黒川警部「村田、現場で紙きれを見たか。」
村田巡査長「紙、ですか? ええと……あ、そういえば。自分が転んだとき、
地面すれすれから見えたんですが、平警部補が遺体のそばにしゃがんで、何かをポケットに入れてました。」
黒川警部「…………本当か。」
村田巡査長「はい。転ぶのは慣れておりまして、低い位置からの観察には自信があります。」
赤城圭太「それは、胸を張って言うことでは。」
赤城は、ゆっくりと口を開いた。
赤城圭太「警部、もう一つ、気になることがあります。現場で平さんは、
こう報告しました。免許証から、地元の四十代の会社員と判明。名前は、これから確認します、と。」
黒川警部「それがどうした。」
赤城圭太「免許証には、名前も住所も生年月日も書いてあります。ですが、職業は書いてありません。
名前を確認していないはずの人が、なぜ、会社員だと知っていたんでしょうか。」
黒川警部の顔色が、さっと変わった。
黒川警部「……財布の中身は、確か、免許証と現金と、診察券だけだった。名刺は、なかった。」
倉石麻衣「つまり、平さんは、最初から堀井さんを知っていた。」
赤城圭太「そして、お巡りさんなら百万円くらい痛くもない、という言葉。」
黒川警部は、しばらく黙っていた。やがて、重い声で言った。
黒川警部「……明朝、もう一度、東尋坊に行く。赤城さん、お付き合い願えますか。」
赤城圭太「探偵は観光客ですが、喜んで。」
黒川警部「ただし、私の許可なく、口を開かないように。」
赤城圭太「三十秒は、持たせます。」
八 断崖の対決
翌朝の東尋坊は、嘘のように晴れていた。
波は穏やかで、岩の間に朝日が差し込んでいる。事件現場の三号岩のそばに、
黒川、平、村田、そして赤城と麻衣が並んで立っていた。
黒川警部「平。お前に、聞きたいことがある。」
平警部補「はい。何でしょうか。」
黒川警部「昨日、現場で、遺体の手から何か取らなかったか。」
平警部補「とんでもない。私は何も。」
赤城圭太「平さん。堀井修一さんの勤め先は、福井市内の自動車整備会社でした。
五年前、県内でひき逃げ事件があったのを、ご存じですね。」
平警部補の肩が、わずかに揺れた。
赤城圭太「僕は昨夜、地元の新聞を調べました。犯人は見つからないまま、
事件は迷宮入りになっています。ところが、その事件の担当に、当時、あなたの名前がありました。」
平警部補「……偶然です。」
赤城圭太「偶然というのは、たまに仕事をしますが、毎回は働きませんよ。」
倉石麻衣「堀井さんは、整備工場で、事故車を直した人です。もし、その車が、犯人の車だったとしたら。」
平警部補は、しばらくうつむいていた。やがて、乾いた笑いをもらした。
平警部補「……まいったな。探偵さんと、女子大生に、見抜かれるとは。」
黒川警部「平。」
平警部補「五年前、運転していたのは、私の弟でした。酒を飲んで、人をはねて。
私は、報告書を握りつぶしました。弟の将来を守りたかった。ただ、それだけです。」
黒川警部「それを、堀井が知っていた。」
平警部補「彼は、修理した車の写真を、全部、残していたんです。
この五年間、少しずつ、金を要求されました。そして、一昨日、百万円。ここで、六時に、と。」
波の音が、静かに響いていた。
平警部補「昨日の朝、金を持たずに来ました。もう払う気はなかった。
彼は、例のメモを振りかざして、笑ったんです。私は、思わず、突き飛ばした。彼は、
岩に頭を打って、それきり……。」
黒川警部「それで、メモを取ろうとしたのか。」
平警部補「ええ。でも、固く握っていて、取れなかった。そこへ、悲鳴が聞こえて、
一度、離れるしかなかった。そのあと、現場で、隙を見て、メモだけは抜き取りました。」
倉石麻衣「そのとき、悲鳴を上げたのは、桜井チカさんだったんですね。」
平警部補「ええ。皮肉な話です。浮気旅行の悲鳴に、私は救われて、そして、追い詰められた。」
黒川警部「その結果が、これか。」
そのときだった。平は、ふいに身をひるがえして、岩場を駆け出した。
黒川警部「平、待て!」
だが、濡れた岩に足を取られて、平は大きくよろめいた。そこへ、村田が全力で追いかける。
村田巡査長「待て、平警部補! うわっ!」
村田は、自分の足につまずいて、盛大に宙を舞った。そして、そのまま、平の背中に、
ちょうど体当たりの形で乗っかった。
平警部補「ぐえっ!」
二人は岩の上で団子になって倒れた。
村田巡査長「確保! 確保しました!」
黒川警部「…………お手柄、と言うべきか、迷うところだが。」
赤城圭太「いえ、堂々と、お手柄です。慣れていらっしゃるので。」
村田巡査長「ありがとうございます!」
倉石麻衣「村田さん、起き上がるときは、気をつけてくださいね。」
村田巡査長「はい! あっ、いてて。」
九 帰りの列車
事件の翌日、赤城と麻衣は、東京行きの特急に並んで座っていた。
見送りのホームで、黒川警部は、苦々しい顔で、しかし深々と頭を下げた。
黒川警部「赤城さん。事件現場に探偵が居合わせるのは、小説の中だけにしてほしい、と私は言いました。」
赤城圭太「ええ、覚えています。」
黒川警部「撤回します。今回だけは。」
赤城圭太「ありがとうございます。ただ、警部。ここも、小説の中ですよ。」
黒川警部「……何ですと?」
赤城圭太「いえ、こちらの話です。」
列車が動き出すと、麻衣は、窓の外に流れる日本海を見つめた。
倉石麻衣「赤城さん、私、卒論のテーマ、決まりました。『身近な人間が犯人になるとき』です。」
赤城圭太「それは、いい題材だ。ただし、実名は出さないでくださいよ。
村田巡査長が、あなたの論文に載ったら、きっと喜んで、また転びますから。」
倉石麻衣「お礼に、論文の序文に、赤城さんのお名前を入れてもいいですか?」
赤城圭太「迷い猫探しの探偵、と?」
倉石麻衣「いえ、名探偵、と。」
赤城は、四つ目の駅弁の蓋を開けかけたまま、固まった。
赤城圭太「……それは、悪くない響きですな。」
倉石麻衣「あ、でも、お弁当は三つまでにしてくださいね。」
赤城圭太「そこは、探偵の自由です。」
そのとき、赤城の携帯電話が鳴った。画面には、見慣れた名前が表示されている。
赤城圭太「はい、赤城探偵事務所……ああ、奥さん。はい。……またですか。
三毛猫の、タマが。……はい。分かりました。すぐ戻ります。」
通話を終えた赤城に、麻衣が笑いかけた。
倉石麻衣「事件ですか?」
赤城圭太「ええ、最難関の、ですよ。」
特急は、冬の光を受けて、ゆっくりと東へ向かっていった。
〔後編 終〕
〔完〕
