目次

一 列車の出会い
二 波音荘の夕食
三 断崖の悲鳴
四 黒川警部の登場

 

一 列車の出会い

北陸本線の特急は、朝の光を受けて、ゆったりと田園地帯を走っていた。

赤城圭太は窓際の席で、三つ目の駅弁の蓋を開けようとしていた。

 

赤城圭太「まあ、探偵は体が資本だからな。」

 

向かいの席の若い女性が、堪えきれずにくすっと笑った。

倉石麻衣「あの、失礼ですけど、もう三つ目ですよね。」

 

赤城圭太「おや、数えていらしたんですか。」

 

倉石麻衣「ごめんなさい、つい。犯罪心理学を勉強しているので、人間観察が癖になっちゃって。」

 

赤城圭太「犯罪心理学? それは奇遇だ。僕は一応、私立探偵でしてね。赤城圭太といいます。」

 

倉石麻衣「探偵さん! 本物ですか?」

 

赤城圭太「本物ですとも。ただし、仕事の半分は迷い猫探しですがね。」

 

倉石麻衣「もう半分は?」

 

赤城圭太「浮気調査と、依頼人の愚痴を聞くことです。後者のほうが、時間がかかります。」

 

麻衣は目を輝かせて身を乗り出した。

 

倉石麻衣「私は倉石麻衣です。大学三年生です。実は卒業論文のテーマが、

犯人の行動パターンなんです。探偵さんのお話、ぜひ聞きたいです。」

 

赤城圭太「それはありがたいが、僕の話は猫のほうが多いですよ。ところで、旅行ですか?」

 

倉石麻衣「はい。福井へ一人旅です。東尋坊を見たくて、旅館も予約しました。赤城さんは、お仕事ですか?」

 

赤城圭太「いえ、休暇です。三毛猫のタマを探し出した謝礼に、依頼人が旅行券をくれましてね。

猫一匹で、二泊三日の旅。悪くない商売でしょう。」

 

倉石麻衣「素敵なお話ですね。それで、宿はどちらですか?」

 

赤城圭太「海のそばの『波音荘』です。」

 

倉石麻衣「えっ! 私もです!」

 

二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。

 

赤城圭太「こりゃ驚いた。偶然というのは、たまに仕事をするものですな。」

 

倉石麻衣「赤城さん、せっかくですから、観光もご一緒していいですか?」

 

赤城圭太「もちろん。ただし、探偵は財布が軽いので、ガイドはあなたにお願いしますよ。」

 

倉石麻衣「任せてください。地図だけは得意なんです。」

 

赤城圭太「それは頼もしい。僕は地図を逆さに持つ名人でしてね。」

 

倉石麻衣「それ、探偵として致命的では?」

 

赤城圭太「だから迷い猫の専門なんです。猫も迷っていますから、お互い様です。」

 

列車は海の見える区間に入り、窓の向こうに、鈍く光る日本海が広がった。

 

二 波音荘の夕食

波音荘は、断崖のすぐ近くに建つ、古い木造の旅館だった。

玄関で二人を迎えたのは、背筋のぴんと伸びた女将だった。

 

女将「いらっしゃいませ。遠いところをようこそ。女将の志摩でございます。」

 

赤城圭太「赤城です。お世話になります。」

 

倉石麻衣「倉石です。お部屋、海が見えると聞いて楽しみにしていました。」

 

女将「ええ、波の音で眠れますよ。ただ、今夜は風が強いので、少し賑やかかもしれませんけれど。」

 

倉石麻衣「他にお泊まりのお客さまは、いらっしゃるんですか?」

 

女将「今夜は少なくて、お二人のほかには、一人旅の男性のお客さまがお一人だけです。」

 

その夜、二人は旅館の食堂で、カニ尽くしの夕食を囲んだ。

倉石麻衣「わあ、すごい。赤城さん、これ、三つ目の駅弁のあとで入りますか?」

 

赤城圭太「麻衣さん、探偵に限界はありません。」

 

倉石麻衣「それ、ただの食いしん坊の言い訳ですよね。」

 

赤城圭太「鋭い。さすが犯罪心理学だ。」

 

女将が笑いながら、お茶を運んできた。

 

女将「仲がよろしいんですね。親子みたいで。」

 

赤城圭太「おや、せめて叔父と姪くらいにしてもらえませんか。」

 

倉石麻衣「赤城さん、論点がそこですか。」

 

女将「失礼しました。では、兄妹ということで。」

 

赤城圭太「それだと、僕のほうが、だいぶ老けて見えますな。」

 

倉石麻衣「そこは、否定しません。」

 

食事のあと、二人は座敷でお茶を飲みながら、明日の計画を立てた。

 

倉石麻衣「明日は朝一番で東尋坊に行きましょう。

人が少ない時間のほうが、景色をゆっくり見られますから。」

 

赤城圭太「賛成です。ただし、朝は苦手でしてね。」

 

倉石麻衣「何時なら起きられますか?」

 

赤城圭太「七時なら、奇跡が起きます。」

 

倉石麻衣「では、七時に奇跡を起こしてください。もし起きなければ、私が起こします。」

 

赤城圭太「お手柔らかに頼みますよ。」

赤城は笑って、湯のみを持ち上げた。

 

赤城圭太「ところで麻衣さん、東尋坊は、昔から自殺の名所と言われたりもしますな。」

 

倉石麻衣「はい。でも、観光地として長く愛されている場所でもあります。

柱状節理という、とても珍しい地形なんです。」

 

赤城圭太「ほう、ちゅうじょう、せつり?」

 

倉石麻衣「溶岩がゆっくり冷えて固まるときに、五角形や六角形の柱になる現象です。

世界でも、数か所しかないそうですよ。」

 

赤城圭太「麻衣さんは、物知りですな。僕は、猫がどこに隠れるかしか知りません。」

 

倉石麻衣「それも、立派な専門知識です。」

 

このとき二人は、まだ知らなかった。そのただの観光が、翌朝には思いもよらない出来事に変わってしまうことを。

 

三 断崖の悲鳴

翌朝、風は昨夜より少し弱まっていたが、空は低く灰色の雲に覆われていた。

赤城は、約束どおり七時に起きた。ただし、起きたというより、麻衣に布団をはがされたというほうが正確だった。

 

倉石麻衣「赤城さん、奇跡が起きましたね。」

 

赤城圭太「麻衣さん、これは奇跡ではなく、暴力です。」

 

倉石麻衣「起きなかったら起こすと、言いましたよね?」

 

赤城圭太「たしかに。探偵は、約束には勝てません。」

 

二人は朝食もそこそこに、東尋坊へ向かった。

荒々しい柱状の岩が海へ向かって突き出し、足元では白い波が砕けている。

 

倉石麻衣「すごい迫力ですね。写真で見るより、ずっと怖いです。」

 

赤城圭太「足元に気をつけてくださいよ。僕は、麻衣さんを助けるより、

一緒に落ちるほうが得意でしてね。」

 

倉石麻衣「それ、全然得意じゃないですから。」

 

そのときだった。

少し離れた岩場のほうから、女の悲鳴が風を切り裂いた。

 

桜井チカ「きゃあああっ!」

 

赤城圭太「麻衣さん、行きますよ!」

 

倉石麻衣「はい!」

 

二人は濡れた岩の上を駆け出した。足場は悪く、何度も滑りそうになる。

岩の陰に、若いカップルがいた。男は青ざめた顔で立ちすくみ、女は男の腕にしがみついて震えている。

 

赤城圭太「どうしました?」

 

新田健一「あ、あれ……あそこに……人が……。」

 

男が震える指で、岩の裂け目を示した。

そこには、うつぶせに倒れた一人の男の姿があった。

麻衣は思わず口に手を当てた。赤城は、静かに男のそばへ近づき、そっと首筋に指を当てた。

 

赤城圭太「……もう亡くなっています。」

 

桜井チカ「わ、私たち、朝の散歩で来ただけなんです。そしたら、たまたま、あの……。」

 

倉石麻衣「大丈夫です、ゆっくり息をしてください。お名前を教えてもらえますか?」

 

桜井チカ「桜井チカです。こっちは、新田健一さん。」

 

新田健一「新田です。僕たち、福井には昨日来たばかりで、この辺を歩いていたら……。」

 

赤城は岩の周囲をゆっくりと見回した。濡れた岩肌、風に揺れる草、そして遺体の足元に落ちた、小さな何か。

 

赤城圭太「麻衣さん、携帯で警察に連絡を。それと、触らないように、現場をよく見ておいてください。」

 

倉石麻衣「はい。赤城さん、あれ……。」

 

麻衣が指さした先には、遺体の右手が固く握りしめている、小さな紙きれのようなものがあった。

麻衣は電話をかけながら、もう片方の手で、そっと携帯の画面を倒れた男のほうへ向けた。

シャッター音は、波の音にかき消された。

 

赤城圭太「どうやら、ただの転落事故じゃなさそうですな。」

 

倉石麻衣「赤城さん、足跡がほとんどありません。岩が濡れていて、乾くまでは残らないのかもしれませんが。」

 

赤城圭太「なるほど。犯罪心理学の目ですな。」

 

遠くから、パトカーのサイレンが近づいてくる。

波の音と風の音のなかで、赤城の目つきが、迷い猫を探す探偵のそれから、

ほんの少しだけ、鋭いものに変わった。

 

四 黒川警部の登場

数十分後、現場は警察官たちで慌ただしくなっていた。

黒いコートの裾をはためかせて現れたのは、五十代半ばの、眉間に深い皺を刻んだ男だった。

 

黒川警部「県警の黒川です。第一発見者というのは、どなたですか。」

 

新田健一「僕たちです。僕と、この桜井チカさんが見つけました。」

 

黒川警部「そうですか。で、あなた方は?」

 

赤城圭太「赤城圭太といいます。たまたま通りかかった旅行者です。」

 

黒川警部「旅行者? その割には、ずいぶん落ち着いていらっしゃる。」

 

赤城圭太「商売柄、少し慣れておりまして。」

 

黒川警部「商売?」

 

赤城圭太「私立探偵です。」

 

黒川警部の眉が、ぴくりと動いた。

 

黒川警部「探偵さんですか。まったく、困りますな。事件現場に探偵が居合わせるなんて、

小説の中だけにしてほしいものです。」

 

赤城圭太「僕もそう思います。ただ、私が呼んだわけじゃありません。偶然です。」

 

黒川警部「偶然、ですか。」

 

警部補の平が、ノートを手に近づいてきた。遺体のそばにしゃがみ込み、

しばらく何かを確かめたあとで、立ち上がった。

 

平警部補「警部、遺体の身元ですが、財布の中の免許証から、地元に住む四十代の会社員と判明しました。

名前は、これから確認します。」

 

黒川警部「うむ。死因は?」

 

平警部補「後頭部に強く打った跡があります。ただし、転落でできたものか、

誰かに殴られたものか、まだ判断がつきません。」

 

黒川警部「そうか。村田、周辺の聞き込みを頼む。」

 

村田巡査長「はっ! 了解しました。」

 

村田は元気よく返事をしたが、そのまま遺体のそばの岩に足を取られて、盛大に尻もちをついた。

 

村田巡査長「いてて……失礼しました。」

 

黒川警部「……しっかりしろ。」

 

倉石麻衣「大丈夫ですか?」

 

村田巡査長「はい、慣れてますので。」

 

赤城圭太「それは、慣れてはいけないものでは。」

 

黒川警部は咳払いをして、赤城と麻衣に向き直った。

 

黒川警部「ご協力いただくことになるかもしれませんが、

くれぐれも余計なことはなさらないように。」

 

赤城圭太「もちろんです。僕は、観光に来ただけですから。」

 

黒川警部「そう願いたいものです。」

 

警部が去ったあと、麻衣は小声で赤城にささやいた。

 

倉石麻衣「赤城さん、さっきの紙きれ、見ましたか?」

 

赤城圭太「ええ。遺体の右手に握られていました。ちらっとしか見えませんでしたが、

文字のようなものが書かれていた気がします。」

 

倉石麻衣「私も見ました。数字と、何か、地名のような……。」

 

赤城圭太「麻衣さん、観察力がありますな。」

 

倉石麻衣「赤城さんに、犯罪心理学の勉強の成果を見せたくて。」

 

赤城圭太「それは頼もしい。では、少し気になることを整理しておきましょうか。」

 

二人は、少し離れた岩場に腰を下ろした。

 

倉石麻衣「まず、被害者は朝早くから、なぜここにいたのか。」

 

赤城圭太「そして、右手に握っていた紙。あれは、犯人に渡すつもりだったのか、

それとも、犯人から奪ったものなのか。」

 

倉石麻衣「それに、第一発見者のあのカップル。二人とも、ずいぶん動揺していましたけど……。」

 

赤城圭太「麻衣さん、人を疑うのは探偵の仕事です。観光客の仕事ではありません。」

 

倉石麻衣「赤城さんが言っても、説得力がありません。」

 

赤城圭太「……鋭い。」

 

その時、遠くから女将の志摩が、息を切らしながら駆けてきた。

女将「赤城さん、倉石さん! 大変です!」

 

赤城圭太「女将さん、どうされました?」

 

女将「亡くなった方……うちの旅館に、昨夜泊まっていらした、あの一人旅のお客さまかもしれません!」

 

麻衣と赤城は、思わず顔を見合わせた。

倉石麻衣「まさか……。」

 

赤城圭太「女将さん、詳しく聞かせてください。」

 

波は相変わらず、岩を砕き続けていた。しかし、その音の下に、何かが静かに、

ゆっくりと動き出している気配があった。

 

〔前編 終〕