第1話 春の営業先
四月の朝は、少しだけ空気が甘い。
大学を卒業して一年。さゆりは、生命保険会社の営業部で、ようやく自分の名刺に慣れてきたところだった。
ミキ:「さゆり、おはよう。今日も眠そうだね」
さゆり:「おはよう、ミキ。昨日、提案書を直してたら、三時になっちゃって」
ミキ:「また? 同期なのに、さゆりばっかり働いてない?」
さゆり:「そんなことないよ。ミキだって、先週は残業してたでしょ」
ミキ:「私のは、帰り際に頼まれただけ。さゆりのは、自分から引き受けるやつ」
さゆり:「……否定できない」
ミキ:「でしょ。はい、これ。コーヒー。午後から、大事な営業だよね」
さゆり:「うん。日本最大級の、あの大手企業。新人の私に任せるなんて、上司もびっくりな人選だと思う」
ミキ:「それだけ期待されてるんだよ。大丈夫、さゆりなら」
さゆり:「大丈夫かなあ……」
ミキ:「大丈夫。だめだったら、帰りにおいしいもの食べよう。私がおごる」
さゆり:「それ、だめな前提で話してない?」
ミキ:「あ、ばれた」
さゆりは思わず吹き出した。ミキといると、肩の力がふっと抜ける。入社式の日に隣の席になってから、ずっとそうだった。
午後二時。さゆりは、ガラス張りの巨大なビルの前に立っていた。
見上げると、空が切り取られて、ビルの壁面に映っている。自動ドアの向こうには、天井の高いロビーが広がっていた。
さゆり:「……よし」
小さくつぶやいて、一歩を踏み出した、そのときだった。
緊張で足がもつれた。腕に抱えていた資料の束が、バサッと音を立てて、大理石の床に散らばった。
さゆり:「あっ。す、すみません!」
慌ててしゃがみこむと、誰かの手が、先に一枚を拾い上げていた。
ハヤト:「大丈夫ですか。ケガはありませんか」
顔を上げると、スーツ姿の青年が、穏やかな目でさゆりを見ていた。
さゆり:「大丈夫です。本当に、すみません。ありがとうございます」
ハヤト:「そんなに慌てなくて大丈夫ですよ。ほら、全部ここにあります」
さゆり:「助かりました。あの、私、生命保険会社の営業部のさゆりと申します。総務部の方と、お約束をいただいていて……」
ハヤト:「総務部なら、僕です。ハヤトといいます。ちょうど、迎えに下りてきたところでした」
さゆり:「えっ。あ、そうだったんですか。失礼しました!」
ハヤト:「いえ、こちらこそ。まさか、ロビーで書類を拾うことになるとは思いませんでした」
さゆり:「……お恥ずかしいです」
ハヤト:「いえ。おかげで、緊張が解けたでしょう? さあ、行きましょう」
エレベーターの中で、さゆりは何度も深呼吸をした。ハヤトは、それを見て見ぬふりをするように、階数表示を眺めていた。
会議室は、十二階にあった。窓の向こうに、街が小さく広がっている。
ハヤト:「それでは、提案書を拝見します」
さゆり:「はい。今回は、社員の皆様のご家族向けの保障について、プランをご用意しました」
ハヤト:「家族向け、ですか。ちょうど、見直したいと思っていたところなんです」
さゆり:「そうなんですか」
ハヤト:「うちは社員が多い分、人それぞれ事情が違います。一律のプランでは、こぼれ落ちる人が出てしまう」
さゆり:「……素敵な考え方ですね」
ハヤト:「そうですか?」
さゆり:「はい。保険って、いざというときに、こぼれ落ちる人を減らすためのものだと、私も思っています」
ハヤトは、手元の提案書から顔を上げた。
ハヤト:「……いい言葉ですね。それ、提案書に書いてありますか」
さゆり:「えっ。いえ、ありません。今、思ったことをそのまま言っただけで」
ハヤト:「それなら、書いてください。次は、そこから聞かせてください」
さゆり:「次、ですか」
ハヤト:「はい。検討したいので、もう一度、来ていただけますか」
さゆり:「も、もちろんです! ぜひ、伺います」
ハヤト:「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ハヤトは、少しだけ笑った。それは、仕事の笑顔というよりは、ふと緩んだ表情に見えた。
商談が終わり、ハヤトは、一階までさゆりを見送ってくれた。
ハヤト:「今日は、ありがとうございました」
さゆり:「こちらこそ、お時間をいただいて、ありがとうございました。ロビーでは、本当に失礼しました」
ハヤト:「いえ。むしろ、拾ったのが僕でよかった」
さゆり:「え?」
ハヤト:「……何でもないです。気をつけて、帰ってください」
さゆりは、首をかしげながら会釈をした。ビルを出ると、春の風が、頬をなでていった。
その夜。会社の近くの居酒屋で、さゆりとミキは、向かい合って座っていた。
店員:「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」
ミキ:「とりあえず、生二つと、枝豆と、唐揚げをお願いします」
店員:「かしこまりました」
ミキ:「で、どうだったの。大手企業」
さゆり:「それがね……次も来てくださいって、言われたの」
ミキ:「えっ、すごいじゃん! 契約、取れそう?」
さゆり:「わからない。でも、担当の人が……」
ミキ:「担当の人が?」
さゆり:「……ううん。何でもない」
ミキ:「あやしい。さゆり、顔、赤いよ」
さゆり:「お酒のせい」
ミキ:「まだ一杯も飲んでないでしょ」
店員:「お待たせしました。生ビール二つと、枝豆です」
ミキ:「ありがとうございます。……ねえ、さゆり。その担当の人、名前は?」
さゆり:「ハヤトさん」
ミキ:「ハヤトさん、ね。ふうん」
さゆり:「ミキ、笑わないで」
ミキ:「笑ってないよ。応援してるだけ」
さゆり:「応援って、まだ、そんなんじゃないから」
ミキ:「まだ、ね」
さゆり:「……ミキ」
ミキ:「はいはい。乾杯しよう。さゆりの初めての大手企業に、乾杯」
グラスが、小さく触れ合った。
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を、さゆりは、ぼんやりと見つめていた。
かばんの中の名刺入れを開く。ハヤトから受け取った名刺を、何気なく裏返した。
小さな文字が、そこにあった。
「拾ったのが僕で、本当によかったです」
さゆりは、その一行を、何度も読み返した。
これが、すべての始まりだった。やがて二人を、長い長いすれ違いへ連れていく、あまりにも優しい始まりだった。
つづく