「生きること・働くこと」のなぜ?探究ブログ

「生きること・働くこと」のなぜ?探究ブログ

中西章夫(なかにし@あきお)の生きたか探究ブログ

本気で「生きること・働くこと」を考えていくためのブログです。日常のささいな出来事から、生きていく意味や、なぜ働くのか?そして、どう働いていくことが、よりよく生きることにつながるのか・・・そんなことを探し求めるゴールのない旅に出ることにしました。(なかにし@あきお)

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 2月、また歳をひとつ重ねた私。もちろん、これまで凸凹あれど、元気に頑張ってきた42年間はかけがえのないものだ。とはいえ、誕生日が心の底から『おめでたい』とは感じきれない微妙なお年頃(笑)。世間では、後厄と言われるらしい。

 

 日々慌ただしく、20代のころのようにはいかない身体を感じることがあり、それでも気持ちは20代で、相変わらず「挑戦と冒険」をテーマに、虎視眈々と次の展開を頭の中に描いている。

 

 あまり表に出て「わいわい」「キラキラ」しているよりも、縁の下のアンパンマンでいたいと思う私。目指す先は、『誰も知らなくてもいいけれども、実は力持ち!』、路地裏の名店のような…。

 

 ドカーンと打ち上げ花火のような派手さはなく、線香花火のような地味ささえなく、誰も行かぬ道なき道を、草をかき分けつつ、こつこつ足を前に出す。力をつけるには、今ある力よりも、もう少し強い負荷をかける必要がある。今に甘えたらそれは即後退。ましてや「アンパンマン」を名乗るには、こんなもんじゃ永久に務まらない(汗)

 

 いつまでも青春ごっこを続けるのは恥ずかしく、かといって、すべてを歳のせいにして老け込むつもりは一切ない。今歩いている道は、その存在すら危うい崖っぷちだ。それはそれは厳しいけれども、楽しい道でもある。「前よし!後よし!出発進行!」の号令のもと、周囲に細心の注意を払って、仕事に子育てに奮闘する。

 

 時に、崖っぷちを踏み外しかけ、思うようにいかないこともあるけれど、それはその先を進むために必要なステップだと受けとめて、家族という名の包帯で傷を癒し、また出発する。

 

 なんど転んでも「だいじょうぶ!」といって笑って立ち上がる我が子をみて、私もそうありたいし、そうやって生きてきたようにも思う。三つ子の魂百まで・・・なんていうが、私も三つのころから何も変わらないのかもしれない。(これじゃ、アンパンマンじゃなくて、あかちゃんマンだな。。それもいいかな♪)

 

 世間から不意にやってくる嵐に巻き込まれ、予測不能な地雷を踏んづけてボカーンとなって、バイバイキーンとあいさつしながらキラーンと星にでもなりたいくらい、もうなんだか踏んだり蹴ったりな日もあるけれども、そこは初老の大人、道なき道を探し、答えなき答えを求め、時に落としどころを必死に探し、一文字に命を懸ける・・・スリリングな日々。

 

 ははは♪これはこれで充分に人生を満喫しているではないか!あとは、もっともっと力をつけて、地球を支えるアンパンマンになるための鍛錬のみ。人知れずこつこつと怪力をつけるためのレッスン。(レッスン…って軽い気がするけど)

 

 難問に挑む人生は、苦しいが楽しい。まだ問いさえされていない問いを発見する人生も、面白い。人生は、前向きとか後ろ向きとか、ポジティブとかネガティブとか、プラスマイナスの価値観では、味わいに何かが決定的に足りない。前向いても後ろ向いても、どこ向いていても構わない。ただ、「好奇心」さえ捨てなければ、人生をいくらでも面白がれる。

 

 挑戦と冒険。頭の中で虎視眈々と狙う挑戦と、崖っぷちの道なき道を命がけで進む冒険。さぁ、43年目の人生、きっと悲喜こもごもあるだろう。外から見て「キラキラ」しているかどうかなんてどうでもよく、自分の目と心の目を「キラキラ」させて自慢の『好奇心』全開で、進んだり戻ったりしながら、我が子と家族の幸せを心から願い、がんばりたい。本気で、くそ真面目にそう思う人間歴43年目、すべての好奇心を満たすには300年は生きたいと本気で思っている、少々あほな私は、今日も夜更かしして「早く寝なさい」と各方面からおしかりをうけるのだろう。

 

 人生は余分に眠っているほど充分な時間はない。かといって、眠らないことには何も始まらない。そうわかってはいるのだけど、好奇心が歩みを焦らせてしまうのは、私らしくもある。

 

 また、長い旅路になるだろう!

 『前よし!後ろよし!安全運転で、出発進行!』

 

 ゴールデンウィークに入った。

 

 相変わらず仕事に育児に…とあわただしく毎日が過ぎていく。『きっとこのまま、気がついたら人生が終盤戦に突入するのかな』…と思うと、少々怖くなる。もっとも、怖れたところで、何が楽になるわけでもないので、目の前のことに一生懸命になるしかない。【しかない】というよりは、そうすることが、もう当たり前のように体に染みついてきた。

 

 子育てをするようになってから、自分の自由はほとんどなくなった。(妻は私よりももっと自由がない…。)では、不自由かというと、それもまた違う気がする。子育てをするようになったからこそ、知らなかったことを知り、行かなかった場所に出向き、自分の至らなさを痛感し、また子どもの成長を間近で見つめられる喜びを知った。時間、場所の自由は減ったが、受けとめうる心は、ずっと大きく広く深くなっている気がする。それはきっと、失った自由と同等の、いやもしかしたらそれ以上の心の自由を得たのかもしれない。

 

 とはいえ、私も子を授かることが前提の結婚ではなかったので、「もし我が子がいなかったら」ということも、時々考える。妻と好きな時に好きな場所に旅行に出かけていたかもしれない。おいしいレストランで出来立ての料理に舌鼓を打っていたかもしれない。もともとはこれといった趣味はなかったが、夫婦共通の趣味もできていたかもしれない。二人で二人の時間と空間を大切にしながらも、それぞれの一人の時間や空間も大切にしながら、おだやかに歳を重ねていたかもしれない。

 

 生き方にはいろいろある。結婚する人生・しない人生、子どもがいる人生・いない人生、中には自分が生きるのに精いっぱいの人生もあろう。仕事をしたくともできない人生、お金に悩む人生、病気や障害に悩む人生、世間に流れるニュースでは様々な困難な人生が紹介される。少し想像を巡らせるだけでも、心が痛くなるような人生もある。

 

 人生やその苦しみや楽しさを比較することに意味はない。しかし、想像力をフル稼働させて、自分の人生だけではなく、自分が選ばなかった(選べなかった)人生についても思いを馳せられる人間になりたい。きっといろいろな人生に触れ、そのかけがえのない人生を自分の心に受けとめることができれば、我が子を育てていくときにも、きっと何かの役に立つであろう。

 

 私も、今に至るまでは、仕事も私生活もいろいろあった。もう何もかも面倒になって投げ出したくなる時もあった。でも、今思えば、そんな後ろ向きに見えた出来事さえも、何か一つのキャリア(あまりキャリアという言葉は好きではないが…)だったのだと思う。苦しみの真っただ中にいるとき、人はそれが成長の種であるとは思えない。しかし、後になって振り返ってみれば、あの時にまいた種(つらかった日々)こそが、成長だったと知ることになる。

 

 何でもありだと思う。自分の好みはあっていい。「こういう人生がいい」「こんな人生にしたい」…など。でもそうでない人生にも成長の種はいくらでもあるし、その気にさえなれば、苦境から何かを得て、自分が思いもしなかったような素晴らしい人生を過ごせるかもしれない。どこのどんな人のどんな人生も、大切に尊重できる人間になりたい。

 

 我が子の成長と、私の家族の成長、

 私を応援してくれるすべての人たちの成長を

 心から願っている。

最近、意識して

靴ベラを使って靴を履くようにしている。

単に靴を大切に履きたいという思いだけでなく、

小さなことではあるけれど、

丁寧に行動することの大切を忘れたくないからだ。

 

 

それは、我が子と共に出かけるときも同じで、

靴ベラを使って靴を履く。

 

 

先日、ちょっと慌てていて、

靴ベラを使わずに靴を履こうとしたら、

抱っこされている我が子が靴ベラを指さした!

 

 

おぉ。1歳の我が子は、私の行動をしっかり見ていて、靴を履くときには靴ベラを使うということを理解しているということか!子育ては「親の言うことはきかないが、親のやることは見ている」というが、まさに私の行動をしっかりと把握している。当たり前のことかもしれないが、これは大変なことだと実感した。

 

 

最近、人にものを教えるのに、背中を見せるだけではダメ…と聞く。たしかにそれだけでは足りないかもしれない。でも、その背中を見せずに、その理屈を論理的に説明し、手順を事細かに手取り足取り教えたとしても、それだけでは不十分だと感じる。また実際、何か大切な部分が伝わらずに、表面的な行動だけをコピーされてしまう…。

 

1歳の我が子は、私が靴ベラを使うことについて、深い理解があるかどうかはわらかならいが、むしろ単純なコピーかもしれない。しかし、そこに親子の信頼関係があるならば、コピー以上の意味があるのかもしれないし、ないとしても、将来的に深い意味を育むきっかけになるのかもしれない。

 

これは、人材育成でも同じことがいえると思う。信頼できる会社、信頼に足る人物が見せる行動は、まずは単純なコピーだとしても、じわりじわりその理念や深い考えが伝わっていくのではないだろうか?もちろん、細かい気づかいやサポートは必要だとは思うのだが…。

 

そして、我が身を振り返ってみても、今でもって最初の会社での経験は私の中で脈々と生きている。技術者として尊敬に足る上司や先輩の仕事の仕方…具体的に何をどう教わったわけではなく、深い部分の仕事の意味を教わっていた…。人材育成とは、そういうものかもしれない。

 

1歳の我が子に、

たくさんのことを教わる日々。

ありがたいことだ。

私が以前から公私ともにお世話になっている社会福祉法人いちばん星(千葉県市川市)で、12/9(土)に映画「みんなの学校」の上映会を行う…とのことです♪

 

上映会については・・・

社会福祉法人いちばん星公式HP

http://www.ichibanboshi2004.com/

 

映画「みんなの学校」は、大阪市立南住吉大空小学校の取り組みに迫ったドキュメンタリー映画です。

 

みんなの学校公式HPから引用

 

大空小学校がめざすのは、「不登校ゼロ」。ここでは、特別支援教育の対象となる障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんな同じ教室で学びます。ふつうの公立小学校ですが、開校から6年間、児童と教職員だけでなく、保護者や地域の人もいっしょになって、誰もが通い続けることができる学校を作りあげてきました。

 

(中略)

 

映画は、日々生まれかわるように育っていく子供たちの奇跡の瞬間、ともに歩む教職員や保護者たちの苦悩、戸惑い、よろこび・・・。そのすべてを絶妙な近さから、ありのままに映していきます。
そもそも学びとは何でしょう? そして、あるべき公教育の姿とは? 大空小学校には、そのヒントが溢れています。みなさんも、映画館で「学校参観」してみませんか?

 

この映画は小学校が舞台ですが、「職場」も同じ考え方ができるのではないかな?と思います。誰もが様々な個性をもって仕事をしています。凸凹も当然ありますよね。学校も職場も、誰もが通える場所であることが理想です。学校にも職場にも、様々な難しい問題はありますが、「生き方・働き方」を考える上では同じです。

 

昨今話題になった「排除」という言葉。社会が敏感に反応?した「排除」の背景には、多様な個性を広く受けとめる(受け容れる?)社会を理想としている多くの皆さんの姿が浮かび上がります。

 

もちろん、いろいろな考え方があっていいし、いろいろなやり方があっていい…。この取り組みが素晴らしい!と絶賛するつもりもなければ、批判をするつもりもありません。社会のいろいろな取り組みや様々な皆さんの考え方に触れ、我が事ととして、学校についても、職場についても、生きることについても、働くことについても、考えるきっかけになるのであれば、それで充分なのだと思います。

 

私も参加する方向で検討していますが…。はてさて、そううまくいくでしょうか?(笑)。この上映会で見られなかったとしても、どこかに出没して鑑賞してみようと思います!

 

上映会については・・・

社会福祉法人いちばん星公式HP

http://www.ichibanboshi2004.com/

 

または、カフェテラスぴっころ公式ブログからどうぞ♪

 

 仕事柄、人まで話すことも多くなり、社員研修等の講師を行うことも多々あるのだが、その一方である種の研修やセミナーに受講生として参加すると、少ししっくりこないものを感じる。でも、この違和感は、講師として仕事をしていてもまとわりついてくる何とも言えないモヤモヤした気持ちだ。

 

 

 何だろうか?

 

 

 講師の側から見ると、「どう退屈させないか…」とか「短い時間で如何に伝えきるか…」とか「より実践的な内容、ワーク…」とか、そんな視点で考える。ある意味ではエンターテインメント性というのか、その研修を楽しみつつ学びの多いものにしたい…という模範解答なのかもしれない。私も当然同じように模範解答的に考えて研修を組み立てる。

 

 受講生の側から見ると、その研修に参加してワクワクしたり、楽しかったりすれば、とても満たされた気持ちになる。様々な意見を持つ皆さんと出会えることも魅力だ。時に人脈にもなりえるだろうし、自分のキャリを考えるヒントをもらえるかもしれない。

 

 

 一見、霧が発生する余地はないのだが…

 

 

 私が思うに、本当のところ、「学ぶ」というのは、研修やセミナーのように短い時間で完成するものではないし、楽しさというよりも苦しさを伴うものだと思う。それは「何がわからないかわからない」というレベルから掘り下げていくというのか?積み上げていくというのか?修行に近いものが求められるはずだ。

 

 誤解を恐れずに言えば、本物の「学び」と称して、その瞬間の充実感が演出されているだけの研修やセミナーが多いような気がする。「エンターテインメントとして参加して、なおかつ多少学べればOK♪」…程度の気持ちであれば十分に満足できるが、本当に学ぼうとすると、ガッカリすることになる。

 

 社会のこと、人間のこと、生きること、働くことを、きちんと学ぶには、エンターテインメントだけでは到底中途半端なものになってしまう。私自身、講師として如何に楽しみを通して学んでもらうか…に注力してきたが、結局その時だけ…で終わってしまう。人はそんなに簡単に変わらない。感化されてもその日の夕ご飯を食べている頃には、もう元に戻ってしまうのだ。講師の経験から見ても、受講生としての経験から見ても、人は(私も)簡単には変わらない…というのが現実だ。

 

 しっかり学ぶというのは、めくりたくないページをめくること。触りたくない本を触ることだと思う。そして学びが進めば進むほど、どんどん苦しくなるものだ。学べば学ぶほどに道は細くなり、やがて自ら道を作らなければならなくなる。

 

 いろいろな学びのスタイルがあってもいいとは思う。ただ私はやっぱり苦しみを感じて乗り越えるからこその学びにも、もっと価値を見出すべきだと思う。「セミナーを受けて元気になりました!」もいいけど、セミナーを受けてみんなでしかめっ面するのもいいと思う。しかめっ面を超えた先にはもっと元気な自分がいるはずなのだ。

 

 即効性のある薬は、切れるのが早いという。ある種のセミナーには即効性かつ中毒性があるように思う。SNSを流れてくるセミナー告知の数々。2時間程度のセミナーを受けて、感化されて、その時一瞬元気になる…。けど、またすぐ元に戻るので…また同じようなセミナーに参加して…気がつけば毎日何かのセミナーに参加していなければ、自分が自分でいられなくなってしまう。そんなことも十分にあり得る。

 

 こういうところに疑問を感じている私は、きっと中毒性があるようなセミナーや研修を開くべきではないし、参加すべきではないのだと思う。中毒性のあるセミナーを講師としてやればやるほど、自己矛盾をきたしてしまうだろうし、間違ってセミナー受講中毒になってしまえば、もう戻ってこれないだろう。

 

 

 ならばどういう研修を組み立てるのか??

 

 そもそも研修やセミナーという枠組みを外して

 考えるべきなのか?

 

 人に伝えていくことというのは、本当に難しい。そして人から本物の学びを得ようとすることも本当に難しい。自ら書物を読み、気になる人がいれば積極的に会いに行き、実際の現場に足を運び、自分の目と耳で学び取り感じ取る。学びは、おそらく研究し探求していくというのが真の姿なのだ。

 

 なかなか理想通りにはいかないのだけれども、それでも『何か変だ!』と感じる何かをあぶり出し、理想に近づけるためには何をしたらいいのか?何をすべきなのか?常に考えていかなければならない。

 

 とても難しい課題を背負っているが、乗り越えた先には、きっと違う景色が見ているはずだ。どんな景色が待っているのか楽しみにしながら、講師をするときは常に自問自答を繰り返し、受講生になるときも常に自問自答を繰り返し、背負っている課題の答えに近づけるよう真摯に向き合っていくしかないのだ。

 

 なぜか、そんなことを思った。

 ひさしぶりのブログ更新。