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「生きること・働くこと」のなぜ?探究ブログ

中西章夫(なかにし@あきお)の生きたか探究ブログ

 最近、いろいろな分野で活躍している方の話を、直接聴かせていただく機会に恵まれている。もっとも、誰一人として著名人と呼ばれる人はいないし、その道の権威でもない。ましてやインターネットで名前を検索しても、その人を見つけ出すのは困難か、もしかしたらインターネット上では存在していないかもしれない。でも、その活躍ぶりは、まぶしく、時に見せる苦しい表情でさえ美しく、その思いや願いは太陽の光より熱く、その動きは、インターネットの拡散など足元にも及ばないほど速く力強く、そして何より正しく誠実でまっすぐだ。

 

 何だろうか?私が無意味にインターネット上をさまようからだろうか?インターネットでは、誠実で力強くしなやかな幹が見当たらない。誰もが誰かのコピーのように見えて仕方がないのだ(自分も含めて)。だんだんとインターネットもテレビのようになっていくのだろうか?嘘とまではいわないが、なにか現実離れしているような…「あっ。あれはテレビだから…」とか「あっ。あれはインターネットだから…」とか。

 

 本当の声は、集まってこない。「この指とまれ!」と声をあげたところで、集まるのは気になる人の声だけ。テレビにはテレビの、インターネットにはインターネットの、集まりやすい人たちの声だけが、さも大多数かのように取り上げられる。

 

 でも、ひとりひとり、ひざを突き合わせて話を聴いてみると、その【熱】はスゴイ!。そして、その【熱】を多くの人に伝えたいのだが、何かを間に入れる伝え方では伝わらない。

 

 まだまだ、インターネットの時代は続くのだろう。でも、その時代が続くのならば、生の声を自ら拾いに西へ東へ足を運び、聴いたことを自分のものにするまでしっかりかみ砕き、嫌というほど反芻し、すべてを吸収して生まれ変わった自分が、自分の【行動】で多くの人に伝えていく…いや、自然にじわじわ伝わっていくことこそ、大切であり続けるはずだ。

 

 この記事を含めて、世の中「聞いて!聞いて!」のオンパレードだ。しかし「聴かせて!聴かせて!」はあまり見かけない。

 

 自分らしさとか、個性とか、それは、多くの人のところに自ら出向き、その【生の声】を山のように聴くことで、おぼろげながら見えてくるものだと私は思う。

 

 さぁ、明日もいろいろな場面で、いろいろな生の声に触れる。それは朝の妻子との「おはよう」に始まり、様々な人の声に触れ、寝る前の妻子との「おやすみ」に終わる。

 

 散々書き散らしておいてこういうのもおかしいが、皆さんの熱き思いと【生の声】を拾い、自らの【行動】でじわじわ何かを伝えられる人間になりたいと思う。

 

 また、このうざい記事がひとつ、幹のないインターネットの中につながれた。よくもわるくも。

 様々な権利と義務の間で、様々な人々の虹色の感情を背景に、ギリギリのバランス感覚を保ちながら、あるべき姿を探る。

 

 私の仕事は、一言でいえばこんなところだろうか?

 

 どんな仕事もそうだろうが、常に悩む。「もっといい方法が!」「もっといいやり方があるはずだ!」そういう思いで取り組むのだが、なかなか「これだ!」という姿を創り出すことは難しい。

 

 今も、頭の中には、大都市のターミナル駅のように複数の線路が敷かれ、ひっきりなしに様々な列車が出入りする。それは仕事のことはもちろん、自分のこと、家族のこと…明日の晩御飯のことまで(笑)。

 

 仏教の世界で、諸行無常という言葉がある。私の頭の中は、まさに諸行無常。敷かれたレールすら、次の瞬間には消え、また別の瞬間には全く別のレールの上を、見たこともないレトロな汽車が走っていたりする。いやいや、レールどころか、草原に放り出されたりもする。

 

 私の心地がよかろうが、そうでもなかろうが、いつも変わり続ける。

 

 そんなとき、わが子が遊んでいたおもちゃが目に入る。「○△□」。これは、禅のお坊さん、仙厓和尚の描いた絵?書?を思い出した。詳しく知りたい方は、ググっていただくとして…その意味は諸説あるらしい。むしろ禅の神髄?不立文字(ふりゅうもんじ)で、言葉で説明するものではないのかもしれない。私も私なりに解釈?というより、体感?すればよいのだ。

 

 

 ○は、赤いこともあり、今まさに旬のトマトのようにも見える。△は、黄色いこともあり、今まさに旬のトウモロコシのようにも見える。□は、青いこともあり、今まさに旬のナスのようにも見える。

 

 おぉ。なんと俗っぽい。というよりも、食欲の塊、煩悩まみれではないか(笑)

 

 何事にも時季というものがあるのだろう。年がら年中、すべての野菜が手軽に買える時代。でも、何だろう季節の野菜はやっぱりおいしい。DNAに刻まれた何かがあるのだろうか?

 

 もしかしたら、何もかもを直ちに解決しようとしないことかもしれない。もちろん、○のようにどこから見ても同じ答えが出せるに越したことはない。仕事や生活も、今がまさに旬のものから、おいしくいただいていけばよいのだ。何を焦ることもない。実際、落ち着いてひとつずつ結果を出している自分もいる。

 

 しばらくこの「○△□」を眺めていると、すべてが同じ形に見えてくる。ちょっと考えてみれば、はるか遠くから「○△□」を眺めてみれば、どれも点にしか見えない。あれこれ細かいことを気にしていては、大局を見失う…かもしれない。

 

 ・・・・・

 

 こんな具合に、いろいろと次の扉を開けるヒントが浮かんでくる。

 

 

 教科書は、具体的なことを教えてくれる。しかし、□の枠から飛び出そうとするときには、あまり役には立たない。むしろ、単純なものをじっくり眺めていたほうがよいのかもしれない。

 

 そういう意味では、子どもの遊びに対する感覚はスゴイ!ペラッペラの紙一枚でも、ぐしゃぐしゃと楽しそうに遊ぶ。…と同時にきっと何かを本能的に学んでいる。○と△がコツンとぶつかれば、全開で笑う。正直私には、何が面白いのかわからない。。そんな面白さを手掛かりに、きっとまたひとつ何かを学んでいるのだろう。

 

 

 先ほど、不立文字・・・などと言っておきながら、やっぱりどうにか言葉で理解や解釈をしようとする私は、まだまだ□のなかに閉じ込められているのかもしれない。つべこべ言わず、そのままに感じてみる…。

 

 

 何か浮かぶかもしれないし、何も浮かばないかもしれない。

 

 

 答えはあるような、ないような、・・・きっとそれが答えなのかもしれない。「○△□」。

 

 

 必要に迫られて?いや、正確には必要というわけではなく、単なる自己満足のために、そして全く果てることのない好奇心もあって、難しい本に挑戦している。

 

 本の宣伝をするつもりはないので、あえてタイトルなど一切明かさないが、私にとっては相当な背伸び?である。といっても数百円で買える割と薄っぺらい文庫本である。

 

 内容は、さすがである。噂には聞いていたが「わからない」のだ。とはいえ、平均並みに読書経験はあるので、時折わかったような気がする一文はあるのだが…、全体的にはちんぷんかんぷんである。

 

 しかし「わからない」ということは、実に面白い!ある意味ではわくわくする。まず、自分は何がわからないのか?を明らかにする必要がある。これはある意味では自己探求である。「わからない」と認知している私はどうなっているのか?・・・とか、「わからない」は文字が読めないのか、語句の意味がわからないのか、意図することがわからないのか?そもそもお手上げなのか??

 

 「わからない」はすべてが探求につながる。まぁ、私は学者や研究者ではないので、枝葉末節に至るまで徹底して解明して名をあげようとは思わない。それでも、私という小宇宙と、人類が悠久の時を経て積み重ねてきた深遠なる英知に踏み込むことで、得られるものは少なくない。わからないが、すこしわかるに変わった瞬間、その分かった中身がどんなに些細なことであれ、周りを見る目が変わる。そして自分を見つめるまなざしも変わる。

 

 読書は積読でもいい…と聞いたことがある。それも、なんとなくわかる気がする。また読みたいと思えた時が来ればそのときが探求の時なのであろうし、もう読まないとしても、その本を読まないという自分を探求の対象とできるのだ。

 

 さて、この難解な文庫本を紐解くために、いったい何冊の本を読むのだろう?または、あきらめてしまうのだろうか?読もうが読むまいが、こうして芋づる式に人としての幅が広がる。否が応でも自分の深い部分に触れることになる。

 

 何も精神医学の本を読めとか、心理学や哲学の本を読めと言っているのではない。もちろん、その手の本にも、読書開始2秒程度で挫折するものもある。数学でも物理学でも法学でも社会学でも何でもいい。昔から読まれてきた良書を紐解いてみよう。

 

眠いと感じることがはじめの一歩。

 

難しいと感じることが次の一歩。

 

わからないところがわかるのが次の一歩。

 

どうすればわかるのかがわかるのが次の一歩。

 

・・・

 

道ははるか遠いのである。

 

 

それだけに、難しい本というのは

面白いのである。

 恥ずかしながら、先日、JR某路線の…たった2つ先の駅に向かう間に、大切に使っていた定期入れを落としてしまった。駅で入場したときはピッ!と確かに定期入れを当てたので、改札を入ってから、まもなく入ってきた電車に乗り込み、2つ先の駅で降り、改札に向かうまでの10分間に見事に落としてしまったらしい。間抜けな話だけれども…。

 

 このブログでもずいぶん前に記事にしたかもしれないが、なにせ15歳の春からかれこれ25年間も肌身離さず使ってきた定期入れ。まだペラペラの紙の定期券も残っていた時代。高校生のころの某路線は、自動改札もなかった。駅員さんが改札に立って目視で確認していた時代。時には「定期忘れちゃいました」で通っていた時代。そんな時代から、やがて首都圏ではほとんどの駅で自動改札になり、いつしかSuicaやらPASMOやらが出現し、改札口から人が消えた。(正確には改札わきの詰め所に何人もいるのだろうが…)

 

 まぁ、そんな鉄道改札の変遷をくぐり抜け、また電車通勤から自動車通勤になったときには、運転免許証が入り、ガソリンスタンド用のクレジットカードが入り、社員証が入ったりと、いつのどんな時も使ってきた定期入れが…たった10分で消えた!

 

 何ともショックで、すぐさま駅員に申し出て探してもらったものの、残念ながら出てこない。誰か拾って持っていかれたか?どこか溝か何かに落ちてもう永久に表れないのか。。

 

 クレジットカードも入っていたので、こちらも手早く停止させ、金銭的な被害はせいぜい1000円程度。なのに精神的ショックが25年分のプライスレス。また、簡単に落としてしまった自分にも情けないやら、やるせないやら、重ねた歳のいたずらか…。

 

 どうしても取り戻したかったので、駅前の交番にも届け出て、やさしい警察官になだめられ、肩を落として自宅に帰った。家族があたたかく話を聴いてくれたのが救いだった。25年もの間お疲れ様…そんな気持ちにもなっていた。

 

 翌日、JRの某駅から電話が!

 

 車庫の電車から見つかったとの連絡。誰にも拾われず、電車の中で東へ西へと時に蹴っ飛ばされながら、ひたすらさまよっていたかと思うと、これまた情けないやら、寂しいやら…複雑な心境。あたたかな人が駅に届けてくれたという美談などはなく、『まぁ、こんなものか(苦笑)』となった。もちろん、見つかってうれしかった思いはあるのだけれど。

 

 私の定期入れは、東から西へと片道40Km程度の路線を行ったり来たりしていたのだろうか?ずいぶん遠くの駅からの一報。なかなか取りに行けず…と思いきや、忘れ物は数日のうちに、見事なたらい回しで、東京駅に到着。ここでも数日以内に取りに行かないと、飯田橋あたりの警視庁遺失物センターへたらい回しになるという。

 

 なんとか連休前に取り戻すべく、スケジュールの合間を縫って、東京駅お忘れ物承り所へ。無事、ご対面♪となった。

 

 忘れ物には、数々の人情話があるらしい・・・が、私の定期入れに入ってたPASMOの残高は見事数円になっていた。おそらく誰かが拾って売店で買い物でもして、また電車内に捨てたのだろうか?

 

 これといった人情話もなく、むしろ世知辛い世の中を知ることとなった。とはいえ、何の予告もなくふと私の手元を離れ、世間の冷たい風に吹かれながらも、どうにか私の手元に戻ってきてくれたこと、それだけでもうれしいものだ。

 

 おそらく、他人から見ればゴミのようなものだろう。しかし私にとっては誰よりも長い付き合いの相棒であり、パートナーであり、家族である。これからも、よろしく…の感謝を込めて、ぐちゃぐちゃになった中身の整理をした。

 

 すると入れていたことを忘れていたのだが、ご先祖様の「長寿銭」がお守りとして入っていた。きっとご先祖様が守ってくれたのだ。落としたその日は奇しくも若くして亡くなったいとこの命日だった。

 

 やっぱりご先祖様が守ってくれたのだ。

 

 特別な美談なきLost&Found・・・私にとってはプライスレスな思い出になり、何よりもうれしかった日となった。(大げさではあるが)

 

 皆様もお忘れ物、落とし物には十分にご注意ください。

 雨の日は傘のお忘れ物、特にご注意ください。

 スマホもたくさん回収されるとか・・・

 

 美談はそうそうないので、

 落とし物や忘れ物には十分気をつけて

 少々冷たい風にも吹かれながら

 長い人生という名の旅路を

 つづけようではありませんか!

 (なんのこっちゃ)

 

 

最近、めずらしく絵本を買った。

「あかちゃんがわらうから」

 

 

ふだん、小難しい本ばかりを読んでいるので

絵本を買うなんて、葉っぱのフレディ以来な気もするが…。

 

 「あかちゃんがわらうから」を買ったのは、何か評判を聞いて…というわけではなく、我が子に読み聞かせる絵本はないか…と絵本コーナーをさまよっていたときに、背表紙(タイトル)をみてたまたま手に取った絵本だった。

 

 表紙を見ると、絵がなんともわが子のように見えて…ぐっとつかまれた(笑)。中身を読んでいくと、なんとも大人向けの絵本ともいえる内容だった。わが子に買って帰るつもりが、わたし自身と妻へのプレゼントとなった。

 

 絵本であれなんであれ、こういう偶然の出会いを大切にしたい。仕事も育児も生活も、教科書通りには進まない。もちろん自分の計画通りには進まない。だったら、逆手にとって「予定通りでないこと」を利用してみればいい。絵本を必要としていない人も、絵本コーナーに立ち寄ってみればいい。気になる本をさっと手に取ってみればいい。表紙を見て買ってしまえばいい。きっと、予定とは違った今日が訪れるに違いない。

 

 「予定通りに進まないこと」を楽しめるようになれば

 人生のプロフェッショナルになれる…はず。