一生の中で学校の入学と学業を終えた後の就職は人生の前半のハイライトで、これによって残りの人生の行く末が決まると言っても過言ではないでしょう。私も70歳を迎える今となって、たとえば勤め人を終えて定年後の状況であればこの先、今更大きな変化のある人生でもなかったと思いますが、いまだこうして零細企業の経営をする立場だと依然として一寸先は闇という恐怖からは逃れられません。とはいえ昔のように数百名の従業員を率いる立場でなく、万一のことがあっても子供もそれぞれとっくに独立した今となっては、伴侶を路頭に迷わせれてはいけないと言う責任だけですから若い頃に較べれば割と気持ちは楽です。
先日、二人の企業人の自伝を読みました。一人は元日産自動車の代表者であった西川廣人氏、もう一つは元ソニーミュージックの代表者だった丸山茂雄氏の書です。それぞれ直接的に知り合いではありませんが、私の就職という人生前半の大きな節目の関わりのある二つの企業の経営者でした。

大学卒業後1977年春の就職に向け、前年秋、就職活動をするわけですが、故あってこの方々の関わる日産自動車とソニーミュージック(当時はCBSソニーという社名)の試験を受けました。
日産自動車に入りたかったのは自分がモータースポーツをしていたので当時大森にあった宣伝3課で働きたかったためです。(しかしいきなりその部署はムリと言われました。日産社内では宣伝3課はサービス分野で多少さげすんで見ていたようです。ちなみに宣伝3課は後に追浜工場の特殊車両実験課と合体してNISMOという子会社になりました。)
前年10月の会社訪問解禁になり、気持ちが引き締まり、ダラダラ学生気分はチョット緊張モードに突入しました。まず日産自動車の銀座本社での筆記試験が最初でした。試験が始まる際、試験官の方、おそらく人事部門の採用担当の方でしょう。試験開始前に壇上からいきなりこのように言いました。
「仮に君らがこの会社に入ったとしても、定年まで日産にいられるかどうか分からないし、多くはその辺の販売会社かそこらの下請けの部品会社に行ってサラリーマン人生を終わることになるだろうからあまり先々期待しないほうがいいよ。」と・・・
周りの試験を受けた学生たちは苦笑いをしていましたが、私はショックでした。
なぜなら私はそこらの日産の下請け部品会社の社長の息子だったことに加え、仮に事実だとしても前途洋々と就職に希望を抱き試験を受けに来ている学生にそんなことをいう会社に入りたくないと思いました。それでいっぺんに気力がなくなり、試験を白紙回答で帰ろうと思いましたが、実は親のコネもあったので白紙回答で親に迷惑がかかってはいけないので、ほとんど間違えな回答欄を飛び飛びに適当に記して紙を埋めて帰ってきました。帰宅してからもちろん親にそのことは内緒にしましたし親の顔をまともに見れませんでした。長く日産を愛し、日産からの仕事を維持拡大するために病気を乗り越え命をかけて休日も出勤して毎日遅くまで仕事をしている親に、その日の日産本社での出来事を言えるわけがありません。とにかくショックでした。

(↑1960年頃 日産ブルーバードで新設の日産追浜工場のテストコース見学)
かと言って成績も悪かったので他の大手企業の採用試験など受ける気もありませんでした。当時の就職は製造業より、金融や大手スーパーなど流通系が人気でした。友人が大学の求人募集コーナーで「この会社、外資で土日休みでまあ給料もいいし、なんてったって成績不問だぜ!どうよ!」というので、音楽も嫌いでもなかったので、友達に付き合って当時、市ヶ谷にあったCBSソニーの会社訪問にいきました。外観は黒一色のビルでセンスの良いインテリアが光るソニーらしい統一感があるイメージでした。それもそのはず、60-70年代ソニーの他社に抜きん出たデザインの指揮を取った大賀典雄さん(当時ソニー専務)がCBSソニーの社長だったのです。大賀さんはCBSソニーはCBSでもソニーでもない!どちらに主導権ない会社だとよく言っていました。(実際、米CBSとソニーが各48%、残りが確かソニーのメインバンクの三井銀行でした。)
会社訪問のはずが、なぜかいきなり抜き打ち的に採用試験第一段階で部屋で面接をさせられました。あとで知ったのですが一緒に受けに行こうといった友人はなぜか来なかったのでした。
経過の話はいろいろありましが長くなるので結論を言いますと、大学の成績も悪く内申書も最悪な私はまんまと日産は不合格となりましたが、なぜかCBSソニーに採用されました。実は日産に行く気は失せていましたし、CBSソニーも数回の入社試験を繰り返し、異常な倍率であったのでハナから諦めており、自分では友人筋に依頼して自動車修理工の見習いをするつもりでいました。
どうするか迷いましたが、縁あって入社できたんだから修理工などせずにその会社行ったほうがいいよという周囲の助言で、CBSソニーにお世話になることになりました。
口にはしませんでしたが、その時点で 父は内心では日産で同じ業界で幾年か経験を積ませて自分の会社に呼べたら良いと思っていたと思います。一方 私はこれで永遠に日産と関わらないで生きていけると確信していました。
レコード業界(当時まだCDすら発売されていません)は当時、アイドルのレコードを若年層に売ることが最大の収益基盤でしたので、ヒット曲次第の水商売と比喩されていました。私は面接などの際に主張した通り、音楽を聴かずレコードを買わない層にレコードを買わすことが会社の売上を伸ばすはずだと思っていたので、当時では洋楽や邦楽に較べて光の当たらなかった環境音楽のレコードやテープを制作する仕事をしたかったのです。ところが、実際は全国に販売会社を展開せんとする地域密着の新ビジネスの各地の販売会社のスーパーバイザーという地味な職に就かされました。思い描いた楽しい音楽の企画の仕事とは縁遠い、経営指標とマーケティングの勉強の日々が始まりました。レコード制作や営業の人たちは概ねTシャツやGパンで仕事をしていましたが、私の部署はスーツにネクタイの丸の内ルックでした。TシャツやGパンで仕事をしたのは休日出勤でタレントの地方営業のお手伝いのとき位だったと思います。
さて、この書の丸山さんはお父上は丸山ワクチンで有名な丸山千里博士ですが、医師にならず読売広告社の営業職をしておられたようでしたが、印刷屋で見た他社が請け負ったCBSソニーの創業時募集の求人広告に共感してCBSソニーに入った方でした。私が入社したときは30代のバリバリで香港の事業から戻り、一般のレコード販売の東京営業所の所長でした。私は入社前の研修的なアルバイトで同じフロアの丸山さんの隣の部署にいて、氏のギョロとした鋭い大きな目が合うと思わず目を伏せていました。実はそんな形相に似合わず、話しぶりもフランクで優しそうでした。先輩曰く、「丸さんはホントに部下の話を良く聴いてくれるしいい人だから、いつか部下になりたい上司ナンバーワンだよ。」とのことでした。その後、丸山さんはソニーミュージックの社長になるまでに、私の在籍中にも新設のエピックソニーを立ち上げ、ライブハウスなどでのタレントの発掘や新たなプロデューサーの活躍の場を新たに作り上げました。さらに後にソニーが持て余していたプレイステーションのもとになるゲーム分野を確立しソニーコンピューターエンターテインメント(現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント)を立ち上げたりしました。とにかく自分でプレイヤーとして技量を発揮するのでなく、周囲の人の能力を導き出しそれらをミックスして有機的に機能させて新しいものを産み出す真のマネジャーとしての力量はすばらしかったようです。実は後にソニー本体の社長になる平井和夫さんもいわば丸山さんがプレステ開発時に米国で発掘した方です。とにかく丸山さんは肩書きや権威ということにこだわらず、その人なりと行動の中身で語り同一目線でチームをまとめ上げるタイプだったようで,多くの方に「丸さん」と慕われています。

(↑1968年 CBSソニー設立時の募集広告)
さて、こうしてCBSソニー入社後、4〜5年ほど経った時、大阪に勤務していた私が鳥取に出張していたとき、父が生涯2度目の脳卒中に倒れ緊急手術となりました。幸い大きな後遺症はありませんでしたが、父を思うと結局私は家業だったあの「そこらの下請けの部品会社」に入ることになりました。奇しくもずっと希望していた環境音楽のレコード制作分野への配置転換が現実化しそうなころでしたので、後ろ髪を引かれる思いで東京にもどりました。
かくして下請け工場の製造現場の泥臭い下積みの作業から能率管理・品質管理など生産管理全般の多忙な日々が始まりました。これまで自分の表札ともいってよい「名刺」にあったソニーのマークがなくなるということは、コリャほんとに実力を付けていかないと世間に通用しないということを痛感する日々でした。日産は、購買や技術者などプライドをお持ちの方が多く、わたしのところのような「そこらの下請け企業」には敷居の高い会社で、縁遠い会社でした。村山・追浜・座間・栃木・・・各所の工場も品質の打ち合わせなどで遠路よく出かけました。ただ普段接する工場の工長や班長の中には、元気付けてくれる人や定年になったらお宅の会社に呼んでくんない?というような方もおられ、あの入社試験のことが思い出され、その時となっては勤め人の哀歌のようなやや同情にも似た気分にもなった思い出があります。当時はまだ生産管理用の市販コンピューターソフトなどがない時代で、生産管理の効率化のために夜学でコンピューターの専門学校に通い慣れないプログラミングにチャレンジして自ら生産計画のソフトを昔のNECのPC9801相手に徹夜で奮闘して作成したり、QC7つ道具を駆使してパートのおばちゃんや現場のお兄ちゃん達といっしょに夜遅くまで改善活動をしたのはとても良い経験でした。

(↑1964年 自動車部品業界の視察で欧州出張時の父)
結局、それから7年後に父は肝臓癌で60才で急逝しました。もちろん現役社長です。医師は脳の手術の時の輸血のせいだろうとのことでした。医師から余命宣告を受けたのが俳優の石原裕次郎が死去した7月の夏の暑い日でした。医師の話では「裕次郎と同じ多発性の肝臓癌で余命3カ月」とのことでした。当時はまだ癌告知はしないのが当たり前でしたので本人には隠していた上、まだ若いのでガンでもとりあえずまだ元気なので、家族とともにその対処に関して、大変苦しい日々でした。会社内部も役員にも誰にも言わず古くから顧問だった会計士先生と内々で社内の引き継ぎ準備に追われました。そして医師の宣告通りほぼ3ヶ月後の10月の秋風の到来とともに父は逝きました。
かくして父の死の日の翌日から社長業を引き継ぎました。私は33才でした。あまりに突然で、まるで乗り合いバスの運転手が急に失神したのを横からハンドルを支えるような悲しむ余裕すらない状況でした。長年染みこんだ下請け体質からなんとか脱皮できればと思い経営の近代化を進めようとしましたが、自らの力の至らなさ故、社長になって約6〜7年後、上場している日産系大手部品メーカーに全株式を売却し、自らも経営者を退きました。日米貿易摩擦に端を発した自動車の海外生産化とコストダウン強化の潮流の中で、その時点の商品力や経営的な資力やマンパワーでは勝ち抜けないと思い、当時はまだ一般化していないM&Aを決断しました。共に汗を流し社業発展に長く尽くしてくれた社員の皆さんには申しわけなかったのですが、このまま私企業として体力を消耗して社員と家族を養えなくなることを思えば、止むを得ない苦渋の決断でした。
こうして、まるですごろくの振り出しのようにあの日産の「そこらの下請け企業」の経営者になり、自らの手で「そこらの下請け企業」の幕を引きました。思いもよらない展開でした。

(↑1987年 就任時の私 33才)
幸いまだ若かったので、M&Aのいろいろな調整も戦えましたし、それで得た資源を活用して現在に至れたのは幸いでした。最近は年配の方がM&Aで苦労されているケースも多いと聞いていますので私はその点で助かりました。若さは力です。若い時に発揮しないともったいないです。
話を戻します。著者の西川廣人氏は実は奇しくも私が就職試験を受け入社しなかった同年に日産に入社しています。今は古くなってよその会社になったあの銀座のビルの中のどこかに学生同士ですれちがっていたのかもしれません。私などと違って東大出の優秀な西川さんは、購買や海外事業など様々な分野で活躍し、日産上層部に上り詰め最後は社長にまでなりますが、海外ビジネスが長かったせいか、日産のそれまでの親方日の丸的な保守的な体質には違和感を持っていたようです。そして社長になり、誰もが経験できないスゴイ仕事をする運命にあいます。ご存じカルロス・ゴーンの不正の後始末です。結局西川さんも後に辞任しますが、今は経験を活かしてコンサルティングやベンチャーの顧問などをして元気でおられるようです。
ソニーでいろいろな仕事を創造する立場に追いやられ、その舞台でチームリーダーとして活躍する丸山さん(追いやったのはいつも大賀典雄さん)と、どちらかというと巨大企業の歯車としていろいろな分野で受動的に経験を重ね社長に上り詰め、最後に稀有な体験までできた西川さんの仕事人の人生は、今となってはそれぞれがドラマチックに見えますが、ともにその才能をフルに発揮したよい人生だったのではないでしょうか?
私は常々、人生は川の流れのようで、その中で一生懸命生きるのは大切だけれど、川の流れは上から下に流れるので、それを下から上に流そうとすると、所詮無理なのでうまく行かず失敗する。ところが流れを上下でなく、左右横に溝を作って動かしたり、流れの中に石や岩や枝を置いて流れを強くしたり弱くして流れを変えることは出来るわけです。自分の少ない体験上、そんな気がします。
私は日産の車に乗って育ち、日産で仕事をしたいと思うがひょんなことで日産に失望し、二度と日産と関わりたくないと思うが、また結局日産と関わることになり、最後は日産との縁を自ら絶ったわけです。一方、明日の仕事への希望に燃えたCBSソニーでの夢を絶ちきり、そこでイヤだイヤだと思ってやってきた経理・計数管理・人事・税務などのマネジメントやマーケティングなどの経験が、ソニー退職後に役に立つことになりました。結局、今思えば 私のこれまでの人生で川の流れの行き着く先は決まっていたような気がします。
70才を迎え、私も人生の岐路だった2つの企業を生きた経営者たちの書をみて、あらためて人にとって就職とは大きな人生の川を探すような作業の始まりだと思います。いずれにしても川の途中で、いつもこの川下まで私を支えてくれた人が沢山いたことの幸運とその方々に心から感謝をしています。もうあとどのくらい生きれるかわかりませんし、大した事はできませんが、川の流れが終わり、海に流れ着く日までもう少し頑張りたいと思います。