~資地計築~ 建築デザイン 木下 稔 -103ページ目

初心、試され事、全力。〜やった事がないことは出来ない〜①

前回書いた記事「世阿弥の初心忘れるべからず」

今日は、以前、何かの講演で聞いた中村文昭氏の

「頼まれ事は試され事」という話について。

中村氏は野菜を行商で売る師匠の下、厳しい下積み生活をしておられました。

その師匠がいつも言っていたのが

「頼まれ事は試され事」

師匠の知り合いが来た時に「ジュースを買って来てくれ」と頼まれ

ブラブラ歩いていた中村氏が、ハッとして振り返ると師匠がジーっと見ている。

中村氏は必死で走ってジュースを買って帰って来たそうです。

この「頼まれ事」、人は誰かに何かを頼む時

それは「この人がどれだけの成果を出してくれるのか」=試しているということだということです。

人は何かを頼んだ時、その結果が期待を下回った場合

その評価をもって、関わり合いの度合いを変えたり、頼まなくなるから

たとえジュース1本でも、必死で走って少しでも早く帰って来て、師匠のメンツが立つ

そんなつまらない期待であっても応えろという教えだそうです。

現代社会で、全力は出されているのでしょうか?


~つづく~

初心忘れるべからず 〜いつの間にか逆に〜

「情けは人の為ならず」

この諺を聞くと

「他人に情けをかけるのは、その人が甘えてしまうのでしてはダメ。情けをかけるのはその人をダメにしてしまう

そう思っている人が多いのではないでしょうか。

元々の意味は

「かける情けは、回り回って自分に還ってくるもの。だから、自分の為にも、周りの沢山の人達へ情けをかけましょう」

という意味です。

長い年月の中で、言葉の意味が変わることは沢山あります。

「滅相もない」=×

「滅相な」=◯

「お茶を濁す」、「仏の顔も三度まで」etc.

我々が知っている言葉が、本当は違う意味の言葉たくさんあります。

その中の言葉の一つ、能の世阿弥が残した

「初心忘れるべからず」という言葉。

現代では

「長年やってなれてしまったり、やり始めた情熱を忘れず、いつまでも若いままのエネルギーで物事に臨め」

という意味にとらえられがちですが

世阿弥が説いた「初心忘れるべからず」とは

20歳には20歳の、30歳には30歳の出来る最大、最高があります。

60歳には60歳の80歳には80歳の出来る最大、最高があります。

初心とは、いつ如何なる年齢、時点の自分であっても

その時の「最高」に挑む心。


たとえ80歳になって20代の頃とくらべて1/3の体力や声、動きしかできなくとも

1/3にできる最高を「初心」忘れることなく挑戦しつづけること。

その場所に立ったときの気持ちで、今有るがままで、今の持てるすべてで注ぐ。

これが初心忘れるべからずです。

つまり、今が初心であり、これからもいつも挑戦しつづけることが

「初心」を忘れないことだそうです。

僕は45歳になって、膝のケガが年齢のせいにしてテコンドーの試合を引退しました。

この話を能の勉強会で聞き

怪我をして、年寄りの体力がない僕が

できる精一杯の挑戦をしないのは

「初心」がないのではと思いました。

僕は、これからもずっと挑戦し続けれる、いや、してもいいんだと

何か心の中にあった間違った抑制が

無くなった気がします。


何時ぞやに無くした僕の心

「初心」

それを忘るるべからず

土蜘蛛 〜初心忘れるべからず〜

アゼリア大正ホールで

落語、狂言、能を見て来ました。

落語は桂春蝶

狂言は和泉流 小笠原 匡

能は林本 大先生という面々で行われるものでした。

落語も狂言も面白く、

和泉流 小笠原氏の狂言は、その面白さに引き込まれました。

かなりの実力者です。

そして、この日一番楽しみにしていた能の演目「土蜘蛛」

能でありながら歌舞伎のような激しさと、起承転結をもつこの演目は
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あの、ぱぁ~っと飛ぶクモの糸が


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惜しげもなく飛びまくり、演者が糸だらけになるという激しいもの。

能というのは古来、日本の共通言語で、九州の人が「土蜘蛛演じるよ」と

東北の人に言っても、打合せ無しでこれが演じれるという、完全に完成されたもの。

それゆえに、この完成度は「面」ではなく「世界」でとらえなけらばならないという

これまでTVで育って来た僕には衝撃的なものです。

この能というものは、僕らの生活に染み通るように

「深く」

根付いています。


僕の次の講釈

「初心忘るれるべからず」(受売り)