初心、試され事、全力。〜やった事がないことは出来ない〜①
前回書いた記事「世阿弥の初心忘れるべからず」
今日は、以前、何かの講演で聞いた中村文昭氏の
「頼まれ事は試され事」という話について。
中村氏は野菜を行商で売る師匠の下、厳しい下積み生活をしておられました。
その師匠がいつも言っていたのが
「頼まれ事は試され事」
師匠の知り合いが来た時に「ジュースを買って来てくれ」と頼まれ
ブラブラ歩いていた中村氏が、ハッとして振り返ると師匠がジーっと見ている。
中村氏は必死で走ってジュースを買って帰って来たそうです。
この「頼まれ事」、人は誰かに何かを頼む時
それは「この人がどれだけの成果を出してくれるのか」=試しているということだということです。
人は何かを頼んだ時、その結果が期待を下回った場合
その評価をもって、関わり合いの度合いを変えたり、頼まなくなるから
たとえジュース1本でも、必死で走って少しでも早く帰って来て、師匠のメンツが立つ
そんなつまらない期待であっても応えろという教えだそうです。
現代社会で、全力は出されているのでしょうか?
~つづく~
今日は、以前、何かの講演で聞いた中村文昭氏の
「頼まれ事は試され事」という話について。
中村氏は野菜を行商で売る師匠の下、厳しい下積み生活をしておられました。
その師匠がいつも言っていたのが
「頼まれ事は試され事」
師匠の知り合いが来た時に「ジュースを買って来てくれ」と頼まれ
ブラブラ歩いていた中村氏が、ハッとして振り返ると師匠がジーっと見ている。
中村氏は必死で走ってジュースを買って帰って来たそうです。
この「頼まれ事」、人は誰かに何かを頼む時
それは「この人がどれだけの成果を出してくれるのか」=試しているということだということです。
人は何かを頼んだ時、その結果が期待を下回った場合
その評価をもって、関わり合いの度合いを変えたり、頼まなくなるから
たとえジュース1本でも、必死で走って少しでも早く帰って来て、師匠のメンツが立つ
そんなつまらない期待であっても応えろという教えだそうです。
現代社会で、全力は出されているのでしょうか?
~つづく~
初心忘れるべからず 〜いつの間にか逆に〜
「情けは人の為ならず」
この諺を聞くと
「他人に情けをかけるのは、その人が甘えてしまうのでしてはダメ。情けをかけるのはその人をダメにしてしまう」
そう思っている人が多いのではないでしょうか。
元々の意味は
「かける情けは、回り回って自分に還ってくるもの。だから、自分の為にも、周りの沢山の人達へ情けをかけましょう」
という意味です。
長い年月の中で、言葉の意味が変わることは沢山あります。
「滅相もない」=×
「滅相な」=◯
「お茶を濁す」、「仏の顔も三度まで」etc.
我々が知っている言葉が、本当は違う意味の言葉たくさんあります。
その中の言葉の一つ、能の世阿弥が残した
「初心忘れるべからず」という言葉。
現代では
「長年やってなれてしまったり、やり始めた情熱を忘れず、いつまでも若いままのエネルギーで物事に臨め」
という意味にとらえられがちですが
世阿弥が説いた「初心忘れるべからず」とは
20歳には20歳の、30歳には30歳の出来る最大、最高があります。
60歳には60歳の80歳には80歳の出来る最大、最高があります。
初心とは、いつ如何なる年齢、時点の自分であっても
その時の「最高」に挑む心。
たとえ80歳になって20代の頃とくらべて1/3の体力や声、動きしかできなくとも
1/3にできる最高を「初心」忘れることなく挑戦しつづけること。
その場所に立ったときの気持ちで、今有るがままで、今の持てるすべてで注ぐ。
これが初心忘れるべからずです。
つまり、今が初心であり、これからもいつも挑戦しつづけることが
「初心」を忘れないことだそうです。
僕は45歳になって、膝のケガが年齢のせいにしてテコンドーの試合を引退しました。
この話を能の勉強会で聞き
怪我をして、年寄りの体力がない僕が
できる精一杯の挑戦をしないのは
「初心」がないのではと思いました。
僕は、これからもずっと挑戦し続けれる、いや、してもいいんだと
何か心の中にあった間違った抑制が
無くなった気がします。
何時ぞやに無くした僕の心
「初心」
それを忘るるべからず
この諺を聞くと
「他人に情けをかけるのは、その人が甘えてしまうのでしてはダメ。情けをかけるのはその人をダメにしてしまう」
そう思っている人が多いのではないでしょうか。
元々の意味は
「かける情けは、回り回って自分に還ってくるもの。だから、自分の為にも、周りの沢山の人達へ情けをかけましょう」
という意味です。
長い年月の中で、言葉の意味が変わることは沢山あります。
「滅相もない」=×
「滅相な」=◯
「お茶を濁す」、「仏の顔も三度まで」etc.
我々が知っている言葉が、本当は違う意味の言葉たくさんあります。
その中の言葉の一つ、能の世阿弥が残した
「初心忘れるべからず」という言葉。
現代では
「長年やってなれてしまったり、やり始めた情熱を忘れず、いつまでも若いままのエネルギーで物事に臨め」
という意味にとらえられがちですが
世阿弥が説いた「初心忘れるべからず」とは
20歳には20歳の、30歳には30歳の出来る最大、最高があります。
60歳には60歳の80歳には80歳の出来る最大、最高があります。
初心とは、いつ如何なる年齢、時点の自分であっても
その時の「最高」に挑む心。
たとえ80歳になって20代の頃とくらべて1/3の体力や声、動きしかできなくとも
1/3にできる最高を「初心」忘れることなく挑戦しつづけること。
その場所に立ったときの気持ちで、今有るがままで、今の持てるすべてで注ぐ。
これが初心忘れるべからずです。
つまり、今が初心であり、これからもいつも挑戦しつづけることが
「初心」を忘れないことだそうです。
僕は45歳になって、膝のケガが年齢のせいにしてテコンドーの試合を引退しました。
この話を能の勉強会で聞き
怪我をして、年寄りの体力がない僕が
できる精一杯の挑戦をしないのは
「初心」がないのではと思いました。
僕は、これからもずっと挑戦し続けれる、いや、してもいいんだと
何か心の中にあった間違った抑制が
無くなった気がします。
何時ぞやに無くした僕の心
「初心」
それを忘るるべからず
土蜘蛛 〜初心忘れるべからず〜
アゼリア大正ホールで
落語、狂言、能を見て来ました。
落語は桂春蝶
狂言は和泉流 小笠原 匡
能は林本 大先生という面々で行われるものでした。
落語も狂言も面白く、
和泉流 小笠原氏の狂言は、その面白さに引き込まれました。
かなりの実力者です。
そして、この日一番楽しみにしていた能の演目「土蜘蛛」
能でありながら歌舞伎のような激しさと、起承転結をもつこの演目は
あの、ぱぁ~っと飛ぶクモの糸が
惜しげもなく飛びまくり、演者が糸だらけになるという激しいもの。
能というのは古来、日本の共通言語で、九州の人が「土蜘蛛演じるよ」と
東北の人に言っても、打合せ無しでこれが演じれるという、完全に完成されたもの。
それゆえに、この完成度は「面」ではなく「世界」でとらえなけらばならないという
これまでTVで育って来た僕には衝撃的なものです。
この能というものは、僕らの生活に染み通るように
「深く」
根付いています。
僕の次の講釈
「初心忘るれるべからず」(受売り)
落語、狂言、能を見て来ました。
落語は桂春蝶
狂言は和泉流 小笠原 匡
能は林本 大先生という面々で行われるものでした。
落語も狂言も面白く、
和泉流 小笠原氏の狂言は、その面白さに引き込まれました。
かなりの実力者です。
そして、この日一番楽しみにしていた能の演目「土蜘蛛」
能でありながら歌舞伎のような激しさと、起承転結をもつこの演目は
あの、ぱぁ~っと飛ぶクモの糸が
惜しげもなく飛びまくり、演者が糸だらけになるという激しいもの。
能というのは古来、日本の共通言語で、九州の人が「土蜘蛛演じるよ」と
東北の人に言っても、打合せ無しでこれが演じれるという、完全に完成されたもの。
それゆえに、この完成度は「面」ではなく「世界」でとらえなけらばならないという
これまでTVで育って来た僕には衝撃的なものです。
この能というものは、僕らの生活に染み通るように
「深く」
根付いています。
僕の次の講釈
「初心忘るれるべからず」(受売り)