ボラカイ島に、行ってきた。
過去に、グアムには行ったことがあったけど、ひろなが英語を話してくれたし、7人で行ったし、てかほぼ日本みたいなところやったから、
the 海外 は、今回が初めて。
しかも、行く先はフィリピン。東南アジア。
比べてはいけないかもしれないけど、着くや否や感じたことは、日本と比べてとても貧しい国だということでした。
舞い散る砂埃、何とも言えない臭い、「整備」が行き届いていない景色・空気を感じました。
カリボ空港に着くや否や、たくさんのTAXIのキャッチに捕まるが、あまり良くないと聞いていたので、大型のバスに乗ってホテルまで連れて行ってもらいました。
バスから見える光景は、日本では考えられないものばかりでした。
今にも崩れ落ちそうな家、逆に服を汚しそうな掛け方をされた洗濯物、不衛生に並べられた食品…。
「生きる」ということのために、必死に生活をしていることが分かるその光景に、開いた口が塞がりませんでした。
テレビでは見たことあったけど、本当にこういう世界がすぐそばにあるんだ、と。
しかし、少し不思議なことがありました。
あくまで、バスの中から感じたことでしかないけれど、誰1人として「死んだ目」をした人がいないのです…。
あの、満員電車に詰め込まれた日本のサラリーマンがしているような…。
そして、バスから船に乗り換え、ボラカイ島に着き、また車に乗り、ホテルに到着。
ホテルに荷物を預け、いざ、街中散策へ。
初の海外と行ってもいいほどの今回の旅行。初めはビビり倒して、警戒しまくり、心閉ざしまくりでした。
しかし、不思議ですね。
現地の人と接するうちに、どんどん心が開放的になるのが分かりました。
初めましてな私たちに対し、彼らはいつもフレンドリー。
はじめ、それは悪魔でも商売目的だと思っていました。
私たちが仕事をするときと同じように、「お金をもらうからには気持ちよくさせないといけない」という下心からかと思いました。
しかし、彼らのコミニケーションは、本当に「心」と「心」を感じるようなコミニケーション。
ま、もちろんそんないいことばかりではなく、サンドアートを作ってくれた子供にお金を迫られるという経験もしたけどね…。
でも、なんだろうなぁ。お金を稼ぐ先に「生活」があり、「自分」の「生活」を第一優先にしているがゆえに、自分が心地よく働ける方法で働いているのかな…。
無理して、サービスを提供するというより、笑顔で人と人との繋がりとして働くほうが自分にとっていいからそうしてる、的な。
日本人の私たちに、現地の言葉を教えてくれたarlyn.
毎朝、ホテルの前で待ち構え、私たちから多くの予約を受注をとろうとしながらも(笑)、最高にもてなしてくれたsammy.
もうお金にならないと分かっても、最後まで付き合ってくれました。
「レシート見せろ」と迫ってきた警備員。
話を聞くと、レシートを集めて抽選に応募したいからレシートを回収してるとのこと…笑
お店では、すぐに歌う店員多数。
全然キャッチをする気がないキャッチ。
遊びに来てるの?といいたくなるくらい仲良くおしゃべりをする店員たち。
なんなんだーこの島は。
そんな、島の人々の心を作っているのは、もしかすると、この海なのかもしれない。
どこまでも青く澄みわたる海と空。
島の人の暖かさと、開放的な自然は、少しずつ私の心をも開放的にし、気づけば色んな人に、目を見て、満面の笑みで「thank you!!」と伝え、すぐに仲良くなる自分がいました。
私、本来の自分の姿に戻ってるだけだ、今、と。
まるで、海外という経験が、私を社交的にさせたと思っていました。
しかし、私は昔の昔、本当に2〜3歳くらいのころ、誰彼構わず友達になり、笑うか歌うか喋るかの、超絶ハッピー野郎でした。
いつの間にか、社会や周りに流され、「規律」の中で生き、ロボットのような人間に…なってるような…。
まるで、自分はまだ「幸せ」を持ち合わせていなく、それはこの日本社会のせいだと思っていました。
だからこそ、日本に帰って来たとき、とても嫌でした。あぁ、まだあの開放的で幸せなあの空間にずっといたい…と。
そんな想いのまま、日本の飲食店に入ると、やはりボラカイ島のときのような待遇を受けず、日本社会にがっかり。
目が、合わないんですよね。日本人。
機械的に発せられる「ありがとうござきました」。
これは、何なんだろうと思いました。
しかし、一番の衝撃は…
ボラカイ島であんなに開放的だった自分が、相手の目もみず、笑顔もなく、対応をしていたこと。
ハッとしました。
相手を責める前に、自分が出来ていなかったのです。
自分という人間は、ボラカイ島でも日本でも変わりがないのに、環境にかまけて、自分のあり方が変わっていた。
これには本当に驚きました。
そこで、もう一度「幸せ」について考え直しました。
「日本より貧しいのに楽しそうに生きているボラカイ島の人々」
「ボラカイ島の人々より裕福なのに、窮屈そうに生きている日本人(自分も含め)」
大きな違いは、「自分を大切にしているかどうか」だと思いました。
日本は、急激な経済成長を求めるがゆえに、色々なことが「整備」されすぎてしまったように思います。
街並みや、食生活だけでなく、「個性」や「感情」まで「整備」され、「自分」は、ある箱の中にいるような、そんな感じ。
その箱の中から逸脱したら、世の終わりに感じても仕方がない仕組み。
それって、どうなんやろって感じ。
日本のいいところは、「街並み」や「食生活」がきちんと整備され、「暮らしやすい」ところなはずです。
その恩恵を十分に受け取りながら、幸せに生きるためには、「自分」を大切に生きないと。
でも、それは「自己中」であってはいけない。自分は、自分だけで生きていけない。
愛する人がいて、大切な仲間がいて、一緒になって暮らしていく。
でも、相手も相手で「自分」を大切にする権利ある。私だけが「自分を大切に」ということを優先していては、成り立たない。
だからこそ、大切なのが、「コミニケーション」。
相手の「大切」は何なのか、しっかりと聞き、その上で自分の「大切」を伝え、互いにそれらを大切にし合えることこそ、本当の意味での「お付き合い」なんだと思う。
となれば、相手にどう思われるかを恐れていてはいけない。自分の「大切」を大切にしてくれない人の「大切」を優先することに気を取られて、自分の「大切」を蔑ろにしてしまったら、本末転倒だ。
相手の大切と、自分の大切は違って当たり前。
それを絡めあい、生きていく。
本当の仲間に囲まれて、人生を終えることこそが、本当に幸せな人生なんだろうな。
「仕事」とは、相手の「大切」をサポートするために自分の専門分野を生かす手段でしかない。そして、それで「お金」をいただき、自分の「大切」を大切にする手段を得るに過ぎない。
となると、自分を蔑ろにしてまで働く必要はないし、かといって、相手の「大切」を蔑ろにするような行動であってはいけない。
コミニケーションをとり、バランスを考え、生きていくこと。これが大切なんだろうなぁ。
そして、ボラカイ島でわたしがそうであったように、相手に開放的になってもらうためには、自分が開放的でないと、ね。
開放的な関係の中で、お互いの「大切」を大切にしながら、生きていく。
今の私に、足りないこと。多くの日本人に、足りないこと。