東大も4年生になると効率よくサボることを覚える。
テストはシケタイのシケプリを見て直前に覚えればいいし、レポートはchatGPTが下書きしてくれる。ダブルチェックさえすればchatGPTだってそんなに間違えない。
そんな調子だから、高校時代にどんなふうに勉強を頑張っていたかなんて、久しく忘れていた。
卒論を書いていたある日、研究室の教授に、
「教科書や本に書いてあることは半分くらい嘘です。本の言っていることが正しいかどうかは自分で確かめてください。僕の知っているいちばん賢い先生は、疑問に思った計算式があったらすべて自分の手計算で追いかけて正しいかどうかを確認していました。だから、その人の本棚には本がほとんどありませんでした。」
と言っていた。
なるほど、高校時代の私は、確かに参考書の類は使わず、入試でよく使う公式や化合物については、自分が信じている公理や物理の基本法則や化学を、頭と紙とペンのみで何度も何度も再現して覚えることで自分のものにしていた。
ところが、東大に入ると、その勉強法があたかも間違っていたかのような洗礼を受ける。
大学に入ると、1コマ90分の講義が1日4コマ、週5日間行われる。このボリュームは高校生のときよりもハードだ。
勉強以外のサークル・バイト・旅行で忙しくなった大学生は、とてもではないが、受験生の時以上のペースで行われるこれらのインプットにまともに向き合っている時間などない。
だれもが最初は自分流になんとかならないか方法を模索するのだが、天才的なキャパを持つ理3の学生さえ、結果的にはシケプリを効率よく使ってテスト直前に必要な知識と理論を詰め込むという勉強法に至る。
大学受験に成功し、自分には何でもできると自信満々で入学してきた東大生は、自分のキャパでも抱えきれない情報と機会の嵐に飲み込まれるのだ。
何かの情報を鵜吞みにすれば他の情報を取りこぼし、何かの機会に飛びつけば他の機会を失う。
4年間、勉強以外の何かを得てくると同時に、最低限の学びと努力で成果を出すこの能力を獲得した。
でも、この能力って全然かっこよくないのではないか。
僕たちトップ受験生は、高校で「赤点回避!!!」と言っていた人たちとは、別の世界で生きていると思っていた。
勉強だけじゃなくて部活も恋愛もそれなりにがむしゃらに頑張っていたし、頑張っている自分でいられたから、自分を肯定することができていた。
もちろん他の生徒も部活は頑張っていたけれど、それだけではなく勉強も同じくらい頑張っていたから、「自分は他の人よりも頑張って大きな成果を上げられる可能性がある」と自分の”未来”に対してワクワクしていたし、自分に自信を持てていた。
今の自分は何を根拠に自分を肯定しているのだろうか。
「いままで頑張ってきた自分」
「将来有望と期待されている自分」
「未来が明るいと言われる環境に浸っている自分」
……
このままでいいのか、俺。