人のノートを見て泣いたのははじめてだった。
せんせいの講義用ノートは、
"noble"という言葉がよく似合う。
白いチョークの衣装を纏った黒いファイルを開くと、
小さな2つの穴が開いた幾枚もの紙、紙、あら、まだまだ紙。
黄色くなっていたり、折れていたり。
そしてね、字、字、字の桜吹雪。
せんせいの字を一言で表現するなら、それは、夜桜。
それで、その字が読めないのよね。
まるで何かの記号みたい。いや、暗号か。
もう一度言うが、誰かのノートを見て泣いたのは、今日がはじめてだった。
「誰かが一生懸命勉強した跡とは、美しいですね。」
私は言った。
「それは勉強というか、講義用です。」
「はい、そうです。でも、せんせいのノートはあまりにも美しすぎて、
私の授業用ノートに比べると、私じぶんが恥ずかしくなります。」
自分でも予想もしていなかった言葉だった。私自身、何を言っているのかよく分からなかった。
自分で言ってみて初めて、自分が何を考えているのかが分かった。
私はなみだを隠せそうになかった。話しだすとなみだが出そうで、声がふるえそうで
怖かった。何を言い出すかもよくわからなかった。ただ、
せんせいのノートのせいだ。
という言葉だけが、わたしの頭の中をぐるぐる旋回していてた。
私は危険だと感じた。せんせいは女の涙が一番きらいなことぐらい、容易に想像ついたからだ。
私は食器を持ってさっさと外に出た。給湯室で独り泣いた。
自分でもワケが分からなかった。こんな気持ちは初めてだった。
ただ、せんせいのノートのせいだった。
綺麗な字を織りなすインクの底にはせんせいの苦悩と、歓喜と、幸福と、挫折が入り混じったような
「何か」がひっそりと隠されているような気がした。無我夢中でめくるページの一片に
ひとつぶの涙がぽたと落ちた。
こうして私はせんせいの苦悩と幸福の秘密の共有者となった。
或いは私が勝手にせんせいの精神の領域を侵したのかもしれない。
給湯室でわんわん泣いたあと、にこにこと研究室に戻った。
せんせいは少し困惑した顔をしていた。(ように思う)
「反省してるんですか」
せんせいらしい一言だった
「はい」(私はせんせいに愚痴ったこと、文句を言ったことを反省しています、あほだ、私)
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんですか」
「せんせいは、先生として、1年目はやはり辛かったですか。学生との関わりとか、授業に関してとか、悩み、苦しかったですか」
私は答えを知っていた。答えを知っているからこそ、本人の口から聞きたかった。
「はい」
「そうなのですね、苦しいんで、悩んで、今までやってきて、今の状態に至る、そういうことですね」
「今だって、悩みますよ。」
意外な言葉だった。だってせんせいはかなり余裕そうに見えるから。
「・・・そうなのですね」
「大学の教員は、基本的に、24時間営業なんです」
「・・・」
私はだんだん恥ずかしくなってきた。
何をブツブツと文句を言っているのだろう。休めるときがなかなかない、とか
仕事量が多い、とか、何甘いこと言っているのだろう。
勿論露骨に文句たれたわけではない。せんせいの顔を見るとホッとして
「同業者」として苦しみを共有したいという欲望に駆られるだけなのだ。
でもそれは言い訳かもしれない。
私は去ろうと決めた。
「お守りです」
先生は何かキラリと光るものを私に投げた。
「うぉ」
私はしっかりキャッチした。
「びりけんです」
仕事でいった大阪で買ったものだという。
いいのですか、せんせい。わたしなんかに。
私はいつもとは明らかに違う気分で研究室を後にした。
――いっちょまえに成長してからでないと、もう顔を出しにはいけない――
曖昧な気持ちの中にもそういった考えが心のどこかに明滅していた。
びりけんぱわーで頑張ろう。
人に甘えるな。私はわたしの力で成長してみせろ。
自分を見返せ。おまえなら出来る。
空は今日も青かった。
明日もきっと青い。
わたしは私のノートを編んでいく。
ていねいに、たっぷりの愛を注ぎながら。
大学の夜は、静謐そのものだった。
金曜の夜を楽しむサークル集団を横目に、
わたしはわたしの道をまっすぐ歩きだした。

せんせいの講義用ノートは、
"noble"という言葉がよく似合う。
白いチョークの衣装を纏った黒いファイルを開くと、
小さな2つの穴が開いた幾枚もの紙、紙、あら、まだまだ紙。
黄色くなっていたり、折れていたり。
そしてね、字、字、字の桜吹雪。
せんせいの字を一言で表現するなら、それは、夜桜。
それで、その字が読めないのよね。
まるで何かの記号みたい。いや、暗号か。
もう一度言うが、誰かのノートを見て泣いたのは、今日がはじめてだった。
「誰かが一生懸命勉強した跡とは、美しいですね。」
私は言った。
「それは勉強というか、講義用です。」
「はい、そうです。でも、せんせいのノートはあまりにも美しすぎて、
私の授業用ノートに比べると、私じぶんが恥ずかしくなります。」
自分でも予想もしていなかった言葉だった。私自身、何を言っているのかよく分からなかった。
自分で言ってみて初めて、自分が何を考えているのかが分かった。
私はなみだを隠せそうになかった。話しだすとなみだが出そうで、声がふるえそうで
怖かった。何を言い出すかもよくわからなかった。ただ、
せんせいのノートのせいだ。
という言葉だけが、わたしの頭の中をぐるぐる旋回していてた。
私は危険だと感じた。せんせいは女の涙が一番きらいなことぐらい、容易に想像ついたからだ。
私は食器を持ってさっさと外に出た。給湯室で独り泣いた。
自分でもワケが分からなかった。こんな気持ちは初めてだった。
ただ、せんせいのノートのせいだった。
綺麗な字を織りなすインクの底にはせんせいの苦悩と、歓喜と、幸福と、挫折が入り混じったような
「何か」がひっそりと隠されているような気がした。無我夢中でめくるページの一片に
ひとつぶの涙がぽたと落ちた。
こうして私はせんせいの苦悩と幸福の秘密の共有者となった。
或いは私が勝手にせんせいの精神の領域を侵したのかもしれない。
給湯室でわんわん泣いたあと、にこにこと研究室に戻った。
せんせいは少し困惑した顔をしていた。(ように思う)
「反省してるんですか」
せんせいらしい一言だった
「はい」(私はせんせいに愚痴ったこと、文句を言ったことを反省しています、あほだ、私)
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんですか」
「せんせいは、先生として、1年目はやはり辛かったですか。学生との関わりとか、授業に関してとか、悩み、苦しかったですか」
私は答えを知っていた。答えを知っているからこそ、本人の口から聞きたかった。
「はい」
「そうなのですね、苦しいんで、悩んで、今までやってきて、今の状態に至る、そういうことですね」
「今だって、悩みますよ。」
意外な言葉だった。だってせんせいはかなり余裕そうに見えるから。
「・・・そうなのですね」
「大学の教員は、基本的に、24時間営業なんです」
「・・・」
私はだんだん恥ずかしくなってきた。
何をブツブツと文句を言っているのだろう。休めるときがなかなかない、とか
仕事量が多い、とか、何甘いこと言っているのだろう。
勿論露骨に文句たれたわけではない。せんせいの顔を見るとホッとして
「同業者」として苦しみを共有したいという欲望に駆られるだけなのだ。
でもそれは言い訳かもしれない。
私は去ろうと決めた。
「お守りです」
先生は何かキラリと光るものを私に投げた。
「うぉ」
私はしっかりキャッチした。
「びりけんです」
仕事でいった大阪で買ったものだという。
いいのですか、せんせい。わたしなんかに。
私はいつもとは明らかに違う気分で研究室を後にした。
――いっちょまえに成長してからでないと、もう顔を出しにはいけない――
曖昧な気持ちの中にもそういった考えが心のどこかに明滅していた。
びりけんぱわーで頑張ろう。
人に甘えるな。私はわたしの力で成長してみせろ。
自分を見返せ。おまえなら出来る。
空は今日も青かった。
明日もきっと青い。
わたしは私のノートを編んでいく。
ていねいに、たっぷりの愛を注ぎながら。
大学の夜は、静謐そのものだった。
金曜の夜を楽しむサークル集団を横目に、
わたしはわたしの道をまっすぐ歩きだした。
